その年の2月14日は、日曜日だった。
北海道南部に住む吉田恒子さんは昼ごろ、4月から大学生になる次男を高校まで送った。いつもならそのまま帰宅し、スポーツウエアに着替えて海までウォーキングをする。
ところがその日は、あいにく雪が降っていた。雪や雨のときには歩かない。恒子さんは、帰宅せずにクルマで海に向かった。漁港のわきにクルマを止めて、海を眺めた。
冬の海は暗く荒れていた。それでも、恒子さんは海が好きだ。ときどき、こうやって海を眺める。
寒かったのでエンジンはかけたままにした。岸壁から海を覗きこんでいた恒子さんは、ほんとになにげなく、うしろを振り返った。
10メートルほどうしろに止めていたはずのクルマが、ゆっくりとこちらに向かってきていた。
「トロトロトロっと……そのまま正面で止めるのはぜったい無理だと思って、わきにまわってドアを開けて、ブレーキを踏もうと思ったら、ペダルに足が届かないんですよね。クルマは動いてるし、乗りこんだら絶対いっしょに落ちちゃうな、ああどうしようって思ってる間にどんどん進んで……いっしょに片足入ったまま、ああもう目の前、海と思って。そしたら、私、転んだんです。ばたんって倒れたら、クルマは車止めを乗り越えて、ああって言ってる間に……」
前輪が岸壁から落ちた。車止めが車体の底部に当たり、そこで止まったのである。
なぜ、クルマが動きだしたのか、いまでもわからない。Dレンジに入れたまま、だったかもしれない。恒子さんの車のパーキングブレーキは踏みこむタイプだ。踏んだ記憶はある、と彼女は言う。
だが、踏みこみが足りなかったのか……。
救援要請を受けてやってきたのは矢田忠士隊員だった。車体が海に落ちかけているという連絡を受けて、もう1名隊員を要請していた。
ふたりで現場に到着。
「作業としてはクルマを引き出すしかないので、ひとりでウインチ操作をするより、隊員同士声をかけ合ったほうがうまくできると思いました」
船を繋留するボラード(杭)が車体をこすりそうだった。車体前部は海に乗り出しているので最低限の養生しかできない。が——。
「ふたりで行って作業したのがよかったと思います」
無傷で引きあげることができた。
ところで——。
「たまたまその日は、私の祖母の命日だったんです」
と、恒子さんは言う。なぜ、あのとき、自分は振り返ることができたのか。動くはずのないクルマが自分に向かってきた、あのとき——。
「お婆ちゃんが助けてくれたのかな、とか、そんなふうには思いました」
確たる理由はわからない。けれど、振り向かなければ、背後からクルマに押されて、間違いなく恒子さんは冷たい海に落ちていた。
不思議な話である。