「明治大学 子どものこころクリニック」院長の山登敬之さんとの対談。7回目のテーマは「家族」。
子どもにとっての「家族」というのは、ふつうに考えても、基本中の基本であるだろう。人生がはじまる場所であり、守られる場所であり、生活すべての中心である。たぶん、本人にはそういう自覚もないに違いないが、自覚がないからこその大切さっていう気もする。地球に空気がある、くらいの……。
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松尾「きょうは家族について……」
山登「松尾くんは家族にまつわる話は多いんじゃない?」
松尾「いや、ぼくは家族が少ないんだよ。ひとりっ子だから……」
山登「育ったときはね。だけど、結婚してからは人が増えて、また減ってでしょ。家族ってテーマだったら思うところは多いんじゃないの」
松尾「なるほど、そうかな」
山登「自分が育った家族、自分が持った家族……」
松尾「ひとりっ子だから、家族といえば、まず3人ですよ。それで、結婚してから、ひとりめの子どもが生まれたときに、妻の母といっしょに住みはじめた」
山登「いまのおばあちゃん」
松尾「そう、義理の母。子育てするのにも、お手伝いしてくれたり教えてくれる人がいるのは、いいだろうと思って。その選択はよかったと思うんだよね」
山登「ええ、ええ」
松尾「で、ふたりめが生まれた。そうすると、5人家族。でね、妻の母は、なんだかんだ言っても妻の母なんだよ」
山登「はい」
松尾「私にとっては他人……それはぬぐえないわけね。向こうもちゃんと、娘の夫という意味で尊重してくれるし。奥さん側の実家感覚だから、男としては居心地がいいいわけ。で、それはなんの問題もないんだけど……娘とか息子は結婚して家を出ちゃって、息子は年に1回とか、娘は月に1回くらいは来るのね」
山登「うん」
松尾「そうすると、お祖母ちゃんと孫の会話というものがあって、それがね、びっくりするくらい親しいんだよ、当たり前なんだけど、すごくちゃんと話を聞くんだよね。あの感じは、やっぱり家族なんだなぁと思って」
山登「ちゃんと話を聞くっていうのは、お互いにっていうことね」
松尾「お互いに。祖母ちゃんが聞くのは当たり前だけど、孫もちゃんと聞く、楽しそうに。お祖母ちゃんの部屋っていうのがあって、小さいころからそこに入って、いっしょにテレビを見たりするんだよね。ぼくには、そういう体験はないわけ」
山登「なるほど」
松尾「義理の母はやっぱりどこか他人なんだけど、でも、孫たちにとっては、強く家族なんだよ」
山登「新しい発見かな……家族のかたちとか、家族であることを再確認して、みたいな」
松尾「そうそう。きょう、家族の話をすることになって、そのことをふと思ったんだよね。やっぱり、血のつながりっていうのはあるんだけど、血のつながり以上に、子どものときからずっといっしょにいたという体験。大学卒業して就職してってことは、22〜23歳までいっしょにいるわけだから。
それと、うちはね、奥さんのことを名前で呼ぶのね。娘はママっていうけど。で、お祖母ちゃんのことは、全員がお母さんって呼んでる」
山登「ははあ、奥さんに合わせてみんなそう呼ぶんだね」
松尾「そうそう。妻が中心なんだね、きっと。ぼくと妻がお母さんと呼ぶからか、子どもたちもお母さんって呼んでる。孫たちがお母さんお母さんっていうから、外に出ると、ぼくと母親が夫婦だと思われる。お子さま3人ですかって、いや、これはうちの妻です、とか」
山登「松尾くん、いい感じで老けたから、よかったじゃないの」
松尾「なんの問題もないんで、これで話が終わっちゃうくらいのもんなんだけど……」
山登「そんな馬鹿な」
松尾「子どもにとっての家族って、生まれて、幼少期があって、小学生になって、中高でいろいろ暴れたりするんだろうけど、その間、いっしょにいる人っていうのが家族だよね」
山登「まず、お父さんお母さんからはじまるわけだよね、子どもの人間関係はね。もちろん、いまだと、シングルマザーだとか……おれのところに来ている人はシングルファーザーが何人かいたけどね」
松尾「シングルファーザー……」
山登「お父さんが離婚して、子どもをお父さんが育ててる。すごくかいがいしく子どもの面倒見てる親父もいたし……そういうふうに面倒をみれるから子どもを引き取ったんだと思うけどね。いろんな家族の形態があるけど、問題は、人が少なくなっちゃったことだね。
お祖父ちゃんお祖母ちゃんと同居っていうのは、おれたちが育った時代よりも格段に減ってるわけでしょ。うちも祖父さん祖母さんが完全に同居だったし……両親の親がいたりとか、お嫁にいかないオバサンがいたり、仕事してないオジサンがいたりってウチもあっただろうし、人が多いほうが、子どもの関係性も豊かに育つと思うけどね」
松尾「ああ……」
山登「おとなたちの関係が悪かったら子どもの生育環境的にはよくないかもしれないけど」
松尾「それは、よその家を、医者という立場で眺めていての感想?」
山登「それと、いまの子どもたちを見ててっていう感想だよ。血を分けた家族じゃなくてもいいけど、人が大勢出入りしてるようなね。そういうのって、いまないじゃん。昔は、親父が職場の友だちをいきなり家に連れて来たりとか、けっこうあったよね。父ちゃんが飲んで友だち連れてきて、急に接待しなくちゃいけなくなってお母さんがオカンムリとかさ。だけど、子どもって、人がウチに出入りするのはワクワクするじゃん」
松尾「ワクワクするのか、ちょっといやだなと思うのか……どちらにしろ、そういう、なにかしらのことがバタバタと起こっているのは悪くないってことだね」
山登「悪くないと思うけどね。そっちほうが、子どもが学習する機会が増える。人間というものについて学びの機会が増えるよね」
松尾「そうだよね」
家のなかには、たくさん人がいたほうがいいんじゃないか、というのは、私にはあまりよくわからない。なにせ、ひとりっ子で3人家族だったから。でも、結婚して子どもが生まれてからは、お祖母ちゃんがいて、孫がふたりいて……という意味では、人数が増えて、それはそれでよかったとも思う。
実は私の妻もひとりっ子なので、私の子どもたちには「いとこ」もいない。小さな小さな家族なのである。けれども、私の子どもたちは「家にお祖母ちゃんがいた」という記憶はあって、それは、とても貴重なものだとも思う。
子どもは生まれるウチを選べない。親としては、子どもにとって、その家が安らかで幸福なものであることを望むしかないのかもしれない。
山登「おれがこの仕事をはじめた35年以上前になるけれども、母子密着、父親不在っていうのがさ……不登校に限らず、思春期の子どもの問題行動の原因みたいに言われていた。
だけど、当時はまだバブルの前の日本がイケイケで行ってるときだったから、だいたい男は仕事で忙しくて、会社に取られちゃってるわけだよね、長期出張とか単身赴任とかで。だから、母子密着になるのは当たり前でさ。それがいかにも病理の巣みたいな言いかたをされたけど、まぁ一般的な日本家庭の姿でもあったわけだよ。確かに、そういうバランスの悪い夫婦関係や親子関係は見られたとは思うけど、だからって、どのウチでも子どもが学校に行かなくなるかっていうと、そうじゃないし。
そういうこと言えば、個々の家庭の事情はあれ、子どもにとって、家族や家庭環境は、成長に大きく影響を与えるってのはどこも同じだからね」
松尾「基本といえば、基本だもんね」
山登「そうなんだよ」
松尾「人間関係の基本がそこにあるわけでしょう」
山登「さっきも言ったけど、大家族だったり、人がワチャワチャ出入りしてたりっていうほうが、子どもの育つ環境としてはいいと思うんだよね。兄弟の間で競争があったり、うちのお父さんお母さんちょっとヘンだなとか、比較の対象があったりとか、子どもが早くから社会について学べるからね」
松尾「だけど、いまのパパとママって、大家族でワチャワチャで誰もコントロールできてない複雑なところに子どもを放りこんではいけないって思うんじゃない? ほんとは山登さんの言うように複雑な人間関係があったり、誰がおじさんでパパかわからないような……そういう状況で育つほうがいいのかもしれないけど、それってけっこう、年を取った人の考えかたで、若いときって、親父がみょうなことを教えるからとか、お祖父ちゃんお祖母ちゃんがかわいがりすぎると子どもがワガママになっちゃうんじゃないかなんて言ってる親、多くないですか」
山登「それはだから、おれたちがガキのころはそれが当たり前のかたちだったからね。当時は、環境として当たり前だった。大勢のなかで子どもが育っていくということは、いろんな人が手を貸してくれて、お母さんひとりで子育てをしなくてもよかったわけだから。子どもも大勢いればそれだけ大変だから、みんなで少しずつ負担を分けあったんだよね。それがいまみたく、家族の構造が変わってくると、大勢で同居なんてゼッタイ無理って人が大部分かもしれないよね。要するに人が多ければ多いだけ、葛藤、衝突が増えるわけだから。だけど、そういうところで人間は鍛えられるんだし、人間関係の機微も、小さいころから見ながら育ったほうが勉強になるよね」
松尾「いまは、子どもができても両親に仕事があって、保育園に行かせたりする。夫婦の親が近くに住んでないってことも大きいのかもしれないけど、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに頼って、保育園のときだけでも預かってくれないかとか面倒を見に家に来てくれないかとか、当たり前になっていったら、みんながハッピーになるんじゃないかと思うんだけど。3歳までは、ほんとは母親が育てたほうがいいって、言うじゃないですか」
山登「それ、3歳児神話っていわれて、非常に叩かれた」
松尾「叩かれたの?」
山登「たいした根拠もない理屈で、母親だけが子育てを押しつけられて家に閉じこめられるなんて、とんでもねぇと。だったら、3歳までは母親が育てたほうがいいというエビデンスを出せと。そういうエビデンスはないと。90年代の終わり頃に、さんざん言われてさ。だからいま、そういうことを言うやつはまずいない」
松尾「言うやつはいないの? じゃあ、おれが言っちゃおうかな。大事なような気がするんだけど、それはダメなのかぁ……そうか、そうはいかない人たちを虐げることになるわけだね」
というわけで、自分の考えの浅さをチェックすべく、ネットで「3歳児神話」について調べてみた。ママたちが、その神話のせいで精神的に追いこまれ、ただでさえパニックになりそうな子育てを、ますますつらいものにしている、というふうに書いてある。なるほど。仕事もあるし家にいられないママたちを追いこむことになる、とも。なるほど。
それはそのとおりだと思う。ママの立場で言えば……。
でも、ここは「子どものこころをまんなかに」という視点なので、子どもにとってはどうなのか? ということも考えたい。子どもにしてみれば、ママがずっといっしょにいてくれて、見つめてくれて、愛情を注いでくれたほうがいいのではないか? それができないのだとしたら、それは、ママのせいではなく、まわりのせいなのではないか?
山登「やっぱり、赤ん坊はお母さんのおっぱいで育つわけでさ。お母さんって子どもにとっては、とくに、赤ん坊のときは特別な存在ですよ。どうがんばったって父親はおっぱい出ないわけだから……」
松尾「そうなんだよね。特別な存在だからこそ、当たり前であってほしいと思うなぁ。母親がいないとか、どこかに預けられるっていうのは、それは特殊な環境で、だからこそ愛情をプラスして、よりよく育ててね、みたいな。まず当たり前の関係は、母親が3歳までは愛情持って育てる……子どもにとってはそのほうがいいっていうエビデンスはあるでしょう? ないんですか」
山登「そんなのは神話であると。差はないんだっていうことを当時、データとして出してモノを言った人もいたよね、実際」
松尾「うーん、なるほどね……差はあるような気がするけど、でも、それは言っちゃあいけないんだ」
山登「データなんて使いかた次第なんだから、それはあるって言う人もいればないって言う人もいるだろうけど、ただ、世の趨勢として、女をそうやって家に閉じこめることはできない。これはもうダメでしょ」
松尾「そういうことか……」
山登「子育てを理由に、女をウチに縛りつけておくことはもうできない。だったら、行政がそれに見合う支援をして、お母さんが育児休暇を長いこと取って、子どもをちゃんと育てられるようにすればいいわけ。産休、育休がしっかり取れるなら、子どもともっと一緒にいたいっていう人だっていっぱいいると思うんだよね」
松尾「そうだよね」
山登「それができないから、働かざるを得ないから、保育園に預けてっていうウチだっていっぱいあるでしょうし」
そう。社会の問題なのだ。3歳までは自分が育てたいのに、それを許さない会社とか社会のほうが間違っている、と、強く憤るべきではないのだろうか。会社や社会のほうが立場が上、なんてことを、受け入れるべきではない。そういう個人の強い憤りとか怒りが社会を変える、と、私は思う。
松尾「この前少し話題になった……養子について」
山登「はいはい、養子」
松尾「日本はなんでこんなに血のつながりが……我が子っていうと、話はそこに集中しちゃうよね」
山登「血を分けた我が子っていうのがすごい大事なんだよね。それは日本の独特な家族観じゃないのかな」
松尾「子どもがほしいということと、自分が生むということがいっしょになってるっていうか、そこにこだわっちゃってるのかな?」
山登「そうだよね。自分たちの遺伝子を残したい」
松尾「少しだけ気持ちをずらせば、ハッピーになるような気がするんだけど……」
山登「そのほうが世のなかのためにもなるんだし、不幸な子どもは減るんだし……不幸って決めつけちゃあいけないけどね。お父さんお母さんがほしい子どもがいて、子どもがほしい夫婦がいるんだったら、マッチングさえうまくいれば、いいと思うんだけど……」
前回の「性」のときの後半で、ニューヨークのゲイカップルが地下鉄のホームで見つけた赤ちゃんを自分のたちの子どもとして育てたって話をした。アメリカでもニュースになるくらいの話題なのだろうが、でも、ふつうに養子にすることに関しては、アメリカでは広く受け入れられている。
日本人の家族観とはちょっと違う。日本には、血を分けた子どもこそが自分の子ども、みたいな感覚がある。だから、子どもがほしいのに生まれない夫婦は、大変な苦労をして不妊治療をしたり……。でも、赤ん坊はすぐに幼稚園に行き小学校に入り、中学、高校と、大きくなっていく。ママが娘と化粧品や洋服を買いに行ったり……みたいなことを想像するなら、それはほんとうに、血を分けた子どもでないとダメなのか?
松尾「よその子は育てられないって、どこかで思っちゃうのかもしれないね。親子の愛情が生まれないとか、マイナスの要素があるに違いないとか」
山登「そういうふうに潜在的に思ってる人も、はっきり思ってる人もいるかもしれない。ほかの子じゃだめなんだってことは、裏を返せば、そういうことかもしれないね」
松尾「自分の血を分けた子どもでも、育児中に腹が立つこととか、なんで泣き止まないんだとか、マイナスの感情が親に現れるじゃない? それが、よその子だったら、自分のなかの悪魔を見ちゃう気がするとか……自分の子どもだったらもっとかわいがって育てられたのに、とか」
山登「そういう発想があるかもしれないね……でも、血を分けているがゆえに、さまざまな不幸が生まれることもある」
松尾「そうそう」
山登「もうちょっと距離を持って考えられれば、かえってうまくいくってこともあるかもしれないよね」
松尾「できちゃった婚っていいかたがあるけど、子どもってできちゃうもんだから、というか、できちゃったものは育てますけど、わざわざもらってきてまで、経済的な負担や精神的な負担を負うにはもっとべつの理由がいるのかな、日本人の場合。
欧米の場合はキリスト教的価値観みたいな……他人が生んだ子どもでも、自分の家にいれて我が子のように育ててハッピーになる理想的な家族観みたいなのがあって……そこが日本人には欠けてるのかもしれない」
山登「そういうのはあるかもしれないね。神の子だからね。わたしたちみんなが神さまの子ども……というふうに思えば、確かにね」
松尾「誰かががんばればって問題でもないんだけど……なんでこんなにミスマッチングが起こってるのか……」
山登「そういうの研究してる人がいそうだけど。やっぱり家族観ってものが違うのか」
松尾「そうだね」
山登「子育ての文化とか……」
松尾「うーん」
山登「子どもは社会の宝だから、みんなで育てなくちゃいけないって、日本でもよく言うけど……システムとして弱いし、心情としても、血を分けたわが子はかわいいけど、よその子では……っていうのが根強くある感じだね」
アンジェリーナ・ジョリーのようなセレブなタレントが日本にも現れるといいのかもしれない、とも思う。社会的に影響力を持つ人が、どんどん養子を取って育てて、とてもすてきな家族になっていく、そのプロセスを見れば「養子って、いいかもね」と思う人が増える可能性もある。
松尾「夫婦別姓問題っていうのは、ナンセンスもいいとこでしょう?」
山登「ほんとにね。選択制ってしてるんだからさ、同姓がいいっていうやつはそのままでいいわけじゃん」
松尾「しかも、なんの不都合もないんだってね。夫婦別姓で子どもがいて……自分の母と父の姓が違うっていうのは、子どもには、なんの影響もないんだってね」
山登「そうそう。親がちゃんと説明すればいいわけですよ」
松尾「子どもとしては、パパは山登さん、ママはべつの名字、ぜんぜんオッケーみたいな」
山登「日本人の古い家族観がどっかに残ってるから、それを錦の御旗にして、いまだに、選択制でも夫婦別姓は認めないってゴネてるやつらがいるわけだよ」
松尾「世界的にも類まれな国なんだってね」
山登「だろうね。だいたい戸籍制度が残ってる国なんかもうほとんどないんだから」
松尾「夫婦別姓を認めない理由……日本の伝統的な家族観が崩壊するとか、結局のところ父親が家長で偉くて、とか。それって、明治時代につくられた価値観だと思うんだよね。江戸時代の武家の伝統を明治時代に明治政府がつくりかえた。家長がいて姓があって、みたいな。そもそも江戸時代は名字がない人、いっぱいいるわけだから……」
山登「はいはい」
松尾「日本人の魂とか日本人のよき伝統って、みんな明治時代につくられた価値観じゃないのかなぁ」
山登「まさに国体だよね。大日本帝国憲法に基づく国体の復活でしょ、あいつらが求めているのは。そのぼんやりとした国体みたいなものは、われわれにも浸透してるわけだよね。日本人の精神に」
松尾「浸透って……それね、たとえば時代小説を読むじゃない? 武士の魂のありようとかって……ぼくはそういうのは大好きなんだよね。司馬遼太郎だ池波正太郎だ藤沢周平だの小説を読んだときの武士のありようはいい、と。でも、昔の農家なんて、子どもはどこの子かわからない、うちのカアちゃんが夜這いされて生まれちゃった子どもっていうのもいて、だけど、家族は家族だった。とにかく、明治時代につくられた悪しき制度みたいなものが、だめなんじゃないかと思うんだよ」
山登「無理して近代化したために、そうなったという……だいたい、武士だサムライだっていっても、人口の何パーセントしかいなかったんだから」
松尾「武士が家をとか、名をとか、っていうのは、わかる。武家だから。そういう伝統のうえに成立してるわけだから。でも、それをふつうの家族に適用されて、名字がいっしょでないとダメだって、へんな話なんだよ」
山登「そうそう」
松尾「っていうようなことを、最近、考えてるんだよね。あらゆることがそこにつながるんじゃないか、と。明治時代につくられた価値観を一度こわさないとダメだと。
日本人が脈々と受け継いできた精神性は、実は明治になってつくりかえられてて、天皇制がどうしたこうしたって言ってるわけでね、天皇を神として、みたいな。江戸時代はべつに神じゃないわけだから。えらい人がいるって感じはあって、精神的なよりどころだったにしろ、べつに、百姓にとっては神じゃないからさ。そういう感じだったのを、近代化なのか西洋に追いつけなのか……」
山登「近代化のために必要な憲法を制定するときに、日本の国家元首に天皇をかつぎあげた」
松尾「そうね」
山登「大日本帝国憲法のときは天皇に主権があって、第二次大戦に負けてアメリカに占領されたけど、アメリカも日本を統治するには天皇制を残しといたほうが都合がよかった。それで、日本国憲法の第1条に天皇をもってきたわけだから」
松尾「ただ、アメリカが持ってきた、天皇は象徴であるっていう感覚は、江戸時代の日本人の精神状態と同じというか、シンボルにしておくけど統治はさせないよっていうことは、それはいいと思うんだ。民主主義でよろしくねっていうのも、いい。だけど、家を中心にとか、名字がどうしたっていう感覚は、ないな、と」
山登「さすがに自民党も、主権は天皇にあるとは言わないと思うんだけど、そっちの美しい日本の幻想を、昔の家制度にかぶせてるみたいに感じるよね。冗談じゃねえよと思うけど」
松尾「戻すなら、もっとざっくばらんな、いっしょに住んでる人はみんな家族だみたいな、名前なんてどうでもいいって感覚を取り戻さないとダメなんだけど……これはなんだろう、みんながそう思ってると、そうなるのかな?」
山登「民主主義の世のなかになってるんだから、そういう不都合があれば、選挙のたびに政治を変えていけばいいと思うんだけど、みんな、そんなに期待してないわけ、政治には……選挙行かないし。おれは行ってるけど。あれだけでかい震災があって、原子炉がメルトダウンして、いまだにあんなに大変なのに、世のなかたいして変わってないじゃない。コロナがこんだけ治まらず、オリンピックが中止にでもなったりしたら、日本はこの先、下り坂を転がり落ちていくと思うんだけど、どこまでいったら変われるのかね」
松尾「野党といわれる人たちも、結局、自民党がやってることに反対って言ってるだけで、ポリシーはないし」
山登「おれたちのガキのころは自民党には派閥がいくつもあって、それがよくないって言ってたけど、おかげで党内に自浄作用が働いてたんじゃないの、多少は。いまなんか自民党のなかで人が交替したところで、なにも期待できない。みなさん、本当にいいの、これで? って話になっちゃうんだけどさ……」
と、最終的には政治の話になってしまった。「家族」というテーマで話していて、そこに行きつくのが、いまの日本の姿であるのかもしれない。
しかし、と、思う。政治とか法律とかは置いといて、私たちの心情として家族ってなんだということは、改めてしっかりと考えるべきではないか。コロナ禍で、働きかたも、お金の流れも、生活そのものも、会社と個人のありようも、とにかく、すべてが変わった。会社に行かず、学校にも行けず、家族で過ごす時間も大幅に増えた。そのなかで、ほんとうに大切なものが、改めて見えたのではないだろうか。
山登さんが何度も言ったけど「大勢で暮らしている」ということのメリットも、たくさんある。子育てで助けてもらえる、いろんな人が互いのことを見ている……これらは、ほんとに、子どもにとってはセーフティネットにもなるし、貴重な体験にもなる。
あともう少しで、私もおじいちゃんと呼ばれる年齢になる。個人的なことを言えば、私はもうデジタル・ガジェットなしの生活は考えられない。ということは、そろそろ、すべての世代でデジタルをふつうに使うことが当たり前になる。
どこで暮らすか。どんなふうに家族をつくるか。仕事はどうするか。
20年先の子どもたちは、見ているものが、いまとはまったく違うはずだ。都会で生活することもなく、自然に囲まれながら、わりと大勢の家族で、しかも肌の色だってバラバラで、Amazonで買ったものがドローンで届き、Netflixをみんなで見ている、みたいな生活——。
どこかの政治家が口にする「伝統的な家族の一体感」みたいなものとはまったくベクトルが違う「新しい日本の家族像」を、いまから、想像しておくことが大切ではないか、と、強く思う。