子どものこころを

まんなかに


6. 性

子どものこころをまんなかに

子どもはエロのかたまりである

明治大学 子どものこころクリニック」の院長・山登敬之さんとの対談、今回のテーマは「性」である。「子どものこころをまんなかに」というククリで「性」を語るというのは、どうなんだろう、どこか気恥ずかしいというか、照れくさいというか……。でも、その照れくささのなかに、ぼんやりと性の真実も見えてくる予感もする。自分の子どものころを思い出しつつ、そしてまた、そろそろ衰えはじめた自分を自覚しつつ、いろいろと考えることが多そうな今回の対談である。

 

 

松尾「今日のテーマは、性……」

山登「松尾くんにさっそく質問なんだけどさ。子どものころにお医者さんごっことか、したことありますか」

松尾「そういう話をしなきゃいけないんだろうなと思ってたんだけどね……お医者さんごっこは、したことないんだよね」

山登「女の子を脱がしたりとか……」

松尾「お医者さんごっこはないんだけど、小学校のね、5年生とか4年生くらいかな、近所の幼なじみの、ひとつ上の先輩とエッチなことしてた」

山登「ひとつ上の先輩って、女の子?」

松尾「男」

山登「男同士で?」

松尾「男同士で……性的にいろいろ興味はあるけど対象がないわけだから、そうすると、男の子同士で、そういうことをして……どんなことをしてたかというと、裸で抱き合ったり、みたいな感じ。おとなになって調べてみたら、子どものころって、わりとそういうことはあるみたいね」

山登「ふんふん」

松尾「けどね、そこで射精にいたってないんじゃないかなと思うんだけどね」

山登「男女でそういうことをするんだっていうのは、知識としてあったの?」

松尾「ない。いや……興味はあるけど、具体的にはまったくわかってないんだと思うんだよ。たぶん、その先輩のほうがませてて、知ってる? そういうことするの、みたいな」

 

 こんな話を告白してどうするんだ、ということではある。でも、思い出したので山登さんに話した。

 男の子と裸で抱き合ったりしたことはあるが、そのまま男の子が好きになったわけではない。べつに男の子のからだに興味があったわけではないのだと思う。「性的に興味はあるけど、女の子相手にそういうことはできない」ので「かわりに男の子で」なのだ。こういうことが、わりとよくあることなのか、マレなのかもよくわからない。

 もし、相手の幼なじみが、男の子のからだに興味があったのだとしたら、もしかすると、私は「性の対象としての男」に目覚めていた可能性もある。それもまた、よくわからない。

 

山登「お医者さんごっこをやる年齢って、一般的には、やっぱり幼稚園くらいじゃない? そのときはさ、まだ性行為の意味も知らないわけ」

松尾「お医者さんごっこって、聴診器を当てたり、ちょっと裸を見てみたりくらいでしょう?」

山登「うん。でもやっぱり、幼児の性的な喜びみたいのが何パーセントか入ってると思うんだよね」

松尾「はいはい」

山登「そのときにはさ、男女共犯なわけだよね。どっちかが性被害を受けてるわけではない。ごっこ遊びで……昔はやっぱり男の医者のほうが多いわけだから、男の子がお医者さんの役を取るわけじゃない。女医さんって昔は珍しいからさ、たいてい男の子が医者の役をやって、女の子を脱がせてみたいなことだと思うんだよ。だけど、おとなも、そこは子どものお遊びとして、おおらかに認めてたんじゃないかな」

 

山登「幼児っていうのは、穢れがないっていうことはなくて、フロイト先生が言うように、エロのかたまりである、と。性の欲望はすでにあって、ただベクトルが全方位に向いている、と。

 人間って発達していくうちに、男になり、女になり、そのときに自分の性のベクトルも女に向くか、男に向くか、ヤギに向くか、とかさ、方向がはっきりしてくるわけだよね。その前の段階で、誰かとセックスしたいっていう欲望が生まれる前のお遊びとして、お医者さんごっこがあって、そこにはきっと何パーセントかエロが入っている……というふうに、おれは思っていて……。だから、お医者さんごっこは、子どもの性を考えるときに、わりといいネタではないかな、と」

 

松尾「遊びは探索行動であるって話が前にあったけど、探索のひとつのジャンルとしてエロがあるのかな。そこのところはぜひちょっと探索しておきたい、探っておきたい、これってどうなってるのって感じで……」

山登「探索のテーマだよね。だって、子どもは親と風呂に入ってれば、お父さんとお母さんのからだは違う、男と女のからだは違うって、わかってるはずじゃない。同年齢の男の子女の子と遊ぶときにだって、なにか違いを探索するわけだよね、まさに。そのひとつの方法として、お医者さんごっこっていうのがある」

 

松尾「フロイトのエディプスコンプレックスって、まずお父さんのオチンチンに憧れるんでしたっけ?」

山登「それはフェミニストのみなさんから非常に評判の悪いペニス羨望ってやつですよ。女の子が、パパのオチンチンを見て、私にはない、私もほしい、と。そこでオチンチンのない子に産んだママをうらむ。そんなママに失望してパパに憧れる……って、まあ、フェミニストじゃなくても、ちょっと無理のある理屈だと思うよね。そもそもディプスコンプレックスってのは、フロイトが自分の父親との間に葛藤を抱えていたがゆえに、男の子の立場から考えついた物語であって、ペニス羨望の方はその副産物として生まれた感じがするね」

気恥ずかしいから、むずかしい

子どものこころをまんなかに

 どうやら「子どもは実はエロのかたまりである」というのが、今回の話の根本になりそうである。この対談のスタートで「遊び」というテーマで語り合い、そのときに「遊びとは、探索行動である」というのを聞き、私はいたく感動した。というか、腑に落ちた。

 そうなのである。食って寝て、という生命としての基本のつぎには「探索」がある。この世界はどうなっているのか、あれこれ、あちこち、調べてまわる。それが「遊び」ということなのだ。そして、探索したくなる対象として「からだの違い」というのは自然なものだ。おとなと子ども、男と女、ちょっと違うぞ、なんでだ? という感覚。そこから自然に「性」なるものに惹かれていく、ということかもしれない。

 

松尾「お医者さんごっこの、ここから犯罪、ここから犯罪じゃないっていう線引きはあるの。性器に近づいちゃダメとか?」

山登「なにが?」

松尾「胸のところをあげて聴診器当てるマネだったらいいけど、下まで脱がしちゃったり、指で触ったりっていうのはアウトとか。男女とも、性器、下半身の触れるのはまずいのかな」

山登「最近は、プライベートゾーンっていう言いかたをするよね。水着に隠れる部分と口は、大切な人以外に触らせてはいけない、と。だから、お父さんお母さんはいいけど……だけどさ、女の子はすごく仲良しの男の子にさ、大事な人だからって触らしちゃうことがあるかもしれない」

松尾「そうそう。大事な人っていうのが、愛してる人、好きな人ってなるとね」

山登「パパやママ以外はダメよっていう教育をするのかもしれないけど。だいたい中学生くらいになったら、そういうことは学校で教えてくれなくっても、だいたいみんな知ることになる。子どもが高校生になったらセックスしようねってLINEかなんかでやりとりしてるのを親が見つけて、びっくり、みたいな話もあったり。その時期にもなれば完全に性の意味を知ってるわけだよ。だけど、そこでも、高校生になったからって妊娠しちゃったら大変だよ、したければコンドームをちゃんとつけてやりなさいっていう教育がされればいいんだけどね」

松尾「親がうろたえちゃうってことだ」

山登「親はうろたえるでしょ」

松尾「まあねぇ」

 

 水着で隠れる部分はプライベートゾーンだから……みたいな言いかたで、最近は教育されているようだが、ある場所を特定して「そこはダメ」「ほかはオッケー」というのも奇妙な話である。大切なのは「自分のからだはすべて大切である」という前提のもとに、相手に対しての思いやりや配慮を学ぶということかもしれない。性教育というのはなかなか大変だが、親としては、じっくりとまじめにつきあうしかない。なにせ、子どもにとっては「探索」なのであるから、おとなとしては「師」になって精神的に導けるように気合いを入れる必要がある。

 

松尾「性教育っていうのは、どうなんだろう。日本は、けっこう遅れていると思うんだけど」

山登「非常に積極的にやってるところもあれば、旧態依然としたところも当然ある。でも、学校で進んで教育をしてるなんて、とうてい思えないよね。意識の高い校長がいるところが、専門家を呼んで、子どもに授業をやらせるとか、そういうレベルなんじゃないの」

松尾「スコットランドで、生理の貧困……生理用品をお金がかからないようにしようと法律で決まって、なんてニュースをテレビでやってたんだけど、それは、スコットランドの女子高生が音頭をとってやりはじめて、法制化したと。そもそもその女の子の両親が離婚していて、自分がそういう年齢になったから、パパに生理用品を買ってって言ったら、そんなの恥ずかしくて買えないって言われて、生理になるってことは恥ずかしいことなのかと思ったと。だから活動をはじめて、みたいなニュースなんだけど、いま、その女子高生の学校では教室のうしろにそういう棚があって、生徒たちが生理用品を取れるようになっている。そうすると、男の生徒もつねにそれを目にしていて、そうなると冷やかすこともなくなるし、それはとても大切なことだと」

 

 性教育に関しては、国によってずいぶんと対応に差があるようだ。日本のなかでも、教育関係者、親、それぞれに差があるのだと思う。スコットランドの話はニュース番組で見て「なるほどなぁ、進んでるなぁ」と思ったのだが、じゃあそれを日本の学校でも、なんて話になると、大モメするのは目に見えている。びっくりするくらい古い考えかたのおとなも存在する。

 進んでいる国では、子どもたちの性被害をどう食いとめるか、被害に遭いそうになったらどう対応すべきか、ということを中心に教えるところもあるらしい。讀賣新聞がこのところ熱心にキャンペーンをはっているが、猥褻教師の存在もある。「先生だから」とか「まさか学校で」みたいな感覚は、すでに非常識だということだ。

 性をどういうふうに子どもに伝え、どう語っていくかは、これからの時代、重要なテーマなのかもしれない。

 

松尾「子どものこころにとっての性って、まさに、これからの時代、あえて取り上げるべき話ってことなんだね」

山登「この前の話で、死が一生のテーマだって言ったように、性だって一生のテーマなわけですよ。われわれの生きる力なわけだから」

松尾「死とか病気とかっていうのは、機会があったら親と話したほうがいいよねってことだけど、性についても、そうなんだね」

山登「家族の間では、まだまだ死もタブーであり性もタブーでしょう。でも、親子の関係で言えば、ことあるごとに、そういう話はできたほうがいい。とはいうものの、死よりもむしろむずかしいかもしれない、恥ずかしいからね、単純に。ただ、この間も言ったけど、おとなが考える以上に、ちっちゃいころから子どもは死のことを考える。同じように、おとなが考える以上に、子どもっていうのはエロのかたまりなんだと思う。フロイト先生がえらいと思うのはそこで……」

松尾「あの時代にそういう概念、エロのかたまりなんだよって概念を言いだしたってことは画期的なんでしょう?」

山登「画期的だよね。だから、まわりからはあいつは頭がオカシイとか言われたわけでしょう。にもかかわらず、それでも地球はまわっている、みたいに、それでも子どもはエロのかたまりであると言い続けたんだから、えらいよね」

松尾「人生の大きな部分をそこが占めてる気はする。学校に行きます、勉強もしなきゃいけない、スポーツもやらなきゃいけない……でも、プライベートのところで言うと、かわいい女の子がいるとか、女の子にしてみればラブレターだバレンタインだっていう、そんなことばっかりだよね」

山登「そうね」

松尾「そんな話しかしてないってくらい……メインテーマだ」

山登「だから、直エロ、直セックスではないけれども、異性に対する、あるいは同性でもいいんだけど、そういうドキドキ感みたいなものは、振幅しながらおとなになっていく。そこの根っこには、エロスがあるわけだよね」

男と女、そして、性自認

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松尾「男の子同士集まって、お前、誰が好きだとか、告白したのかっていう集団と、女の子同士で、バレンタインのチョコレートを誰にあげるのかって話をして、その場は盛りあがって……そうやって盛りあがれば盛りあがるほど、このグループのなかに、実はぼくは山登くんが好きなんだっていう男の子がいる、と。そういうこともあるよね。でも、それは、ある程度は教育とか、世のなかがちゃんとしてないと、しゃれにならない話になっちゃう」

山登「そうそう……」

松尾「この前、聞いた話なんだけど、LGBTの人を集めて、ある政党の政治家たちがミーティングをしたんだって。LGBTの人たちがこんなことで困っているとか悩んでいるとか、小一時間話して、最後に、ひとりおじさんの政治家がいて、ものすごくふつうの顔で、で、それはどうやったら治るの? 治療薬はないわけ? って何気なく聞くんだって。それくらい、日本の意識がまだまだなんだと……」

山登「何年か前に、一橋大学の法科大学院だっけ、ゲイの学生が告った相手からホモセクシュアルだってことを仲間にバラされちゃって・・・っていう話、LGBTアウティング事件。ああいうことにもなりかねないわけだよね。だから、受け入れる土壌がしっかりないと……」

松尾「それは、LGBTってことがあるんだっていう認識があって、誰かから相談を受けたら、きちんと、ぼくはきみにはつきあえないけど、っていうふうにして……受け手の問題だよね」

山登「そうそう。おれたちの世代だと、昔は一様に誤解があってさ、こいつはホモだってことになると、おれもやられちゃうんじゃないかとかさ。だけど、ホモセクシュアルの人だって、ちゃんと自分のタイプがあるんだから、誰かれなしにやりたがるわけじゃないんだよ、失礼な! っていう話だよね。そんなところから、ホモフォビアが生じたりするわけで、非常によろしくない」

松尾「それは教育ですかね」

山登「教育でしょう。LGBTっていうのも、さっきの話じゃないけど、病気じゃないわけだよ」

松尾「はいはい」

山登「性同一性障害っていう言葉も消えたわけよ、診断名から。いまは性別違和っていうんだけど、それすらも精神科の診断基準には載せるな、と。それはまだLGBTを精神障害と見なしているということだ、という主張が強くなってきてる。このへんの動きは、ここ何年かで急に進んだ感じがするね」

松尾「病気じゃないんだっていうことが、いまの定義ですね」

山登「だけど、診断はいらないけど医療的なサポートは必要である、と。実際にからだを変えたい人とかもいるからね。そういうサポートは必要なんだね。

 幼稚園くらいから、男の子に生まれた子が、自分は女の子だと、男の子じゃない、いやだっていう子が、クリニックに来たりするんだよ。そういう子たちには、診断をするんじゃなくて、親はこの先どうなるんだろうっていう心配があるわけだから、それについての継続的なカウンセリングみたいなことをやるわけよ」

松尾「自分の身体的な性に対する戸惑いってことね」

山登「まさに、戸惑いであってね、5歳くらいでそんなこと言っても、そうならない子のほうが多い。5歳のときに、自分は男の子じゃない女の子なんだって言ってても、そのまま男になるほうが多いんだよね。しかも、そのなかで、みんなホモセクシュアルになるかっていうと、ぜんぜんそうでもない。だから、逆に、あんまり早い段階で騒ぐとか、気をつかいすぎるとかすると、その子も性的に混乱してしまって、どっちにいったらいいのかわからなくなるってことも……」

松尾「自分の性の自認っていう問題とね、恋愛対象がどっちかというのも、また、べつでしょう?」

山登「べつですね」

松尾「からだは男だけど、実は女の子かもしれない、だけど、女の子が好きって気持ちもあるわけじゃない? 女の子が女の子を好き、みたいな気持ちに近いかもしれないけど。ほんとに、きちんと理解して話をしないと、混乱しちゃうね」

 

山登「日本はさ、昔から、ホモセクシュアルに寛容で、衆道という文化もあったわけだけど、LGBTとはまた違うものだよね」

松尾「衆道っていうのは、女の子みたいに男をかわいがる、かわいい男の子を戦場に連れていって世話させるみたいな感じでしょう」

山登「教育をされてそうなるのか、もともとそういう傾向がある子が選ばれてそうなるのか……人権問題だよね。かわいいってだけで、そういう目に遭わされちゃあさ、たまりませんよ」

松尾「そういう歴史……これはあまり誉められた歴史じゃないけど、そこで生きるしかなければ、それを生業にして小姓になる子もいるだろうし……昔は、ヘアメイクになりたい男は、みんな二丁目に行って、立ちんぼとかやって修業したっていうんだよね」

山登「へえ」

松尾「性自認は男で女が好きなんだけど、そういうゲイの世界を……」

山登「知らないといけない?」

松尾「ゲイにならないといけないみたいな。ゲイのほうが、女の子のモデルとかタレントさんを扱いやすいっていうんで……」

山登「緊張させない……」

松尾「そう。だって、モデルたちはスッピンで現れるから。いかにも男って雰囲気より、あら、なんとかちゃ〜ん、今日はちょっとお肌が荒れちゃって、だめじゃな〜い、みたいなほうが女の子の気持ちをほぐすというか……まさに、ゲイとしての芸なんだよね」

山登「それはなにも、二丁目で自分を売らなくっても……演技的に身につけることもできるじゃん」

松尾「それはウソをつくことになるからっていうんで……よくわからない世界だけど……それはまぁ特殊だと思うんだけど……LGBTって進化してる国はかなり進んでるけど、やっぱり差別もあるし」

山登「そうだろうね。マイノリティだからね」

松尾「マイノリティですよね……みんながオープンに、ふつうに、どうなのっていうふうにしゃべれる世界はいいだろうけど……二丁目のオカマの人たちって、オカマでございますエンタテインメントでございますっていうところで幕をはって、自分たちのほんとの個人的な悩みみたいなものは、わりと隠されてるでしょ?」

山登「それはそうですね」

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二丁目のゲイバー

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松尾「なかなか、むずかしい問題だなぁ」

山登「そこまで発展すると、いろいろ、テーマが多岐に渡るよね」

松尾「それは、おとなの性の話になっちゃうよね」

山登「大学にもセクシャルマイノリティの支援を専門に勉強してる先生がいて、ちっちゃい子に対するサポートをどうやったらいいか教えてもらってるんだけど……おれのフィールドは、ほら、二丁目のあのお店に限られてるからね。もう閉店しちゃったけど……」

 

 山登さんのフィールドというのは新宿二丁目にあったゲイバーである。山登さんの出版パーティもそこでやるっていうくらい、なじみの店だった。数人のオカマがいてショーもあって、なかなか楽しい異次元空間。まさに、二丁目! という感じ。でも、もう、なくなっちゃったらしい。

 

山登「彼らのなかには、モノゴコロついたときからそうだったのよって人は、いなかったんだよね、オレの調査によると。みんな思春期くらいで、自分の性の対象が男だと気づいて、自分が男のままだとやっぱり生きにくい、というような人たちが、からだをつくり変えて、オカマになって仕事をしてたわけだよね。なかには、男の格好のままオネエ言葉をしゃべってるゲイ、ホモセクシュアルって人もいたし」

松尾「分類の問題ですよね。自分のからだは、ほんとは男のままでもいいんだけど、好きになった男の子が、こんなからだじゃ愛してくれない、と。だから、ちょっと、小綺麗にしようかなって人と、男でも女装趣味っていうのもあるじゃない?」

山登「最初は女装だけだったんだけど、からだも変えたいってなっていろいろいじっていって、50歳近くになってやっと、これが完成型みたいなオカマもいた。昔に手術してるから技術的にちょっとアレで、それ、完成してないでしょうよっていう(笑)……まあ、いずれにしても、だいたい思春期くらいから、性に目覚めたころからハッキリしてくる感じね、やっぱり……」

松尾「性の対象として、男性を好きになるわけだ」

山登「しかも、いままでのからだだと、自分も居心地が悪かった。それで、女性のほうに近づいていったけど、オカマの人たちって、本人たちが自認しているように女ではない……自分を女だとは思ってないんだよ、あの人たちは」

松尾「そりゃそうだろうね」

山登「オカマなんだというところにアイデンティティがあるわけ。だけど、もう、オカマっていう言葉も使えなくなっちゃったからね」

松尾「使えないの?」

山登「当事者が言うのはいいけど、われわれが言っちゃあ、差別的なニュアンスが出てよろしくないそうですよ」

松尾「むずかしいね……いろんなものがタブーになっていくんだ」

山登「新しいタブーが生まれてるわけだよね。オカマという言葉は差別用語である、放送禁止用語である、とか」

松尾「そんなこと言ってたら、ますます言葉狩りになっちゃって、議論が進まない」

山登「まったくそうなんだよね」

 

松尾「オカマがさぁっておれが言ったときに、松尾くん、それはオカマって言っちゃあダメよってオカマの人に言われて、じゃあなんて言うの、名前で呼びなさいよ、とか、ゲイって言いなさいとか、いろいろ教えてもらったりして、なるほどなって……そういう感じで、自分の知り合いにLGBTの人がいるかいないかっていうのも大きいかもね」

山登「そうだね。そうじゃないと、さっきの政治家みたいになっちゃうわけだよね」

松尾「なっちゃうんですよ。ほんとに悪気なく言うんだって……」

つぎのテーマは、家族

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松尾「だんだん、性ってものが、妊娠ということとはべつの次元に向かいつつあるよね。自分たちが子どもを持つというところで、男の人のカップルが養子をもらうとか……この前、ニュースでね、地下鉄のホームで赤ちゃんを拾っちゃったお兄さんふたりがいると」

山登「どこの国の話なの?」

松尾「アメリカ。ニューヨーク。拾っちゃったもんだから警察に届けたと。その子を施設に預けなきゃいけないって話をしてたときに、きみたちの子どもにするのはどうなのって、裁判官が言った。そんなこと考えてもいなかったんだけど、でも、抱っこしたときにビビッときて、それはあるかもしれないってふたりで相談して、何週間後にもらい受けたと。そのときはまだ州法で結婚できなかったんだけど、法律が変わって結婚できるようになった……そのときに立ち合ってくれたのも、その裁判官だと。いまは、子どもが二十歳になって、3人で写ってる写真が載ってるわけね。この人たちに育てられて幸せだっていうニュース。でも、それがいい話として伝わるくらいマレな話だと思うんだけど」

山登「うんうん」

松尾「たとえアメリカでも、どこでも転がってる話じゃないからニュースになるんだろうけど、日本でも、養子っていうのが、もっと広まったらいいなって思うんだけどね」

山登「ほんですよ」

 

松尾「性についていろいろ話したけど、とにかく、子どもたちは、ぼくらが思う以上に、エロのかたまりである、と」

山登「それが根っこ。そこから、ワッと枝葉が広がって、今日があるわけですよ」

松尾「文学だって映画だって演劇だって、ほぼほぼ、そこがテーマだからね」

山登「そう」

松尾「恋愛っていっても、極論したら性なわけで……」

山登「そうだね。だから、性っていうのはさ、性行為とか生殖とか、そこに閉じこめてはおけない問題で……フロイト先生が言ったように、エロスであり、生命の源なわけだよね」

 

 というわけで「性」の話。「子どものこころ」はどこにいったんだってくらい、とんでもないところに話が飛んだ気もする。ただ、子どもの時代の性は「探索の対象」であって、つまり、子どものときは手探りで、思春期をすぎて妊娠できるからだになってから、本格的な性とのつきあいがはじまるのかもしれない。つまり、一生のテーマではある。「遊び」が一生のテーマであるのと同等に……いやいや、それ以上に重要なテーマだ。

 みょうに「気恥ずかしい」という気持ちもふくめて、子どもたちの「性」とうまくつきあえる、そんなおとなが増えると、きっと日本はいい国になるのだと思う。

 そして、つぎのテーマは「家族」。子育て、不妊治療、養子、みたいな話もふくめて、家族について語り合いたいと思う。