子どものこころを

まんなかに


4. 成長と発達

子どものこころをまんなかに

大きくなる、できるようになる、わかるようになる。

 今回のお題は「成長と発達」である。山登さんからはあらかじめ「成長と発達は似たような言葉だけど、意味が違うよね。そのあたり調べておくといいかもしれない。心理の領域では発達って言葉を使うことが多いんだけどね」なんて言われていた。

 

『大辞林』をひいてみると、「成長」とは「(人、動植物が)育って大きくなること。一人前に成熟すること。大人になること」。「発達」は「発育して完全な形態に達すること。生体が、時間的経過に伴って形態・技能・行動などを変化させていくこと。また、その課程」とある。

 

 なんか、むずかしいね。日常的に使って意味がわかったような気になっている言葉は、改めて辞書をひくと逆にチンプンカンプンになることが多い。「成長」なんてまさにそう。ふつうに考えると「食べて大きくなること」でしょ? みたいな。それ以外にあんの? みたいな気がするのだが、辞書では「一人前に成熟する」なんて書いてある。「成熟」を調べると「人間の身体・精神などが十分に成長し発達すること」だって。

「成長」「発達」「発育」「成熟」あたりの言葉がぐるぐるまわっている。

 

 わからん! などと嘆きつつ、辞書に頼らず考えみれば、成長というのは大きく育つことで、発達というのは肉体的にも精神的にも内側から充実して強くなること、みたいな気がする。というあたりで対談に挑もうとしたら、山登さんから「発達は、大きくなること、できるようになること、わかるようになることだね」とメールがきた。それは、とても、わかりやすい。

 

 大きくなること。できるようになること。わかるようになること。

 このあたりを言葉の定義として、対談スタートである。

 

 

松尾「成長とか発達について考えると、これまで話してきた、遊ぶ、学ぶ、食べる……これがすごく大事なんだろうなという気がしてるんだよね。このみっつの上に成り立つものだよね、発達って」

山登「からんでくるよね。発達には、食べることも大事だし、発達の過程で学んでいくわけだからね。学びが発達を促進するということもあるでしょう」

松尾「3歳とか5歳とか、年齢によって、その子に見合った発達みたいなものがあると考えていい?」

山登「あるわけだよ、それは統計的に。からだのことで言えば、成長曲線ていうグラフがあって、これを見ればひとり一人どれくらい平均からズレているかわかるようになっている。平均からプラス・マイナス2SDSD=標準偏差)に入っていれば、まあよしと。ところが、マイナス2SDを割っていたら、低体重とか低身長とかってことになって、成長ホルモンの分泌が悪いんじゃないかとか、骨の発達が悪いんじゃないかとか、ネグレクトで食わせてもらってないんじゃないかとか、そういう心配が出てくるわけだよね。

 それと同じように、3歳の子だったら、だいたい親との日常会話は不自由なくできるとか、三輪車に乗れるとか、マルが上手に描けるとか、だいたいの目安がある。たくさん子どもを観察すれば、3歳児だったらだいたいこれくらいできますっていう平均的な発達レベルがわかる。だから、3歳になっても言葉がぜんぜん出てなければ、当然、発達の遅れが心配されるわけ」

松尾「先生のクリニックに来るってことは、親としては、どうもうちの子は、ほかの子と比べて、とか心配になってる」

山登「近所の子どもと遊ばせてとか、保育園に出してとかしてるうちに、うちの子みんなと違うな……って、まず親が気づくよね。そうでなくても、日本には1歳半検診と3歳児検診って行政のサービスがあるから、母子手帳のこれができる、できないって質問に、はいとかいいえとかマルをつけて持っていくと、お宅のお子さんはちょっと診てもらったほうがいいですよ、みたいなことを言われるわけよね。でも、それがみんな病院に流れてくるわけでもなくて、保健所のほうで気をつけてくれて、療育のグループに通いましょうとか、そういうサービスはやってくれるんだよ。松尾くんは知らないからもしれないけど、奥さんはちゃんとそういうのにお子さんたちを連れてってるはずですよ」

もともと持っている力を伸ばす

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松尾「行政サービスで、お医者さんのところに連れていったほうがいいですねって言われるのは心配だね」

山登「その心配の程度は、親御さんによってさまざまだよ。うちの子は、これで小学校の入学に間に合うでしょうかとか。間に合う間に合わないの問題じゃないんだけど、通常学級に入れますか、とかさ。そういう先の心配をして連れてくる人もいるわけだよね」

松尾「医師の目で診て、そんなに心配することないですよっていうことは多い? 親が心配しずきみたいな」

山登「さすがに病院に連れてくるとなるとね、なんにもないってことはないよ。お母さん心配しすぎですよってことは、あんまりないね。やっぱり、親がそれなりに見ていて、いまはあちこちから情報も手に入るし、親の勘が当たってることも多いよね」

松尾「そういう子に関してはなにをするの?」

山登「具体的に言うと、3歳で言葉が出てなかったら、知的障害か、自閉症を疑うわけですよ。実際には、親からの聞き取り、あるいは子どもを見て、診断をして、でもクスリでどうこうって話じゃないから、療育のサービスを勧める。療育っていうのは、ふつうの子より手をかけて、躾なり、子育てなりをするってことだよね。子どもが育つに任せているだけではダメ、もう少しテコ入れが必要ってこと。お母さんは子どもを連れて週に何度か、グループに参加したり、個別で子育て指導みたいなのを受けたりするわけ。ただ、病院ではそういう細かいサービスまでやってるところは少ないよね。だいたい、行政にそういうサービスがある。あと、民間が療育の、子育てのための塾みたいなのをたくさんやってる。

 療育というのは、発達に特徴のある子どものための教育だよね。発達障害って言っても、医療の問題じゃなくて、まずは教育なんだよ。ただ、社会的なサービスを受けるときに医者の診断書が必要な場合もある」

 

松尾「それは前提としては、みんなより遅れていると学校とかに入ったときに苦労するから、みんなのレベルについていきましょうって感覚なのかな。平均値に合わせましょう、みたいな」

山登「それは違う。合わせましょうということではないよね。そういうつもりでいる親も多いけど、その子がもともと持ってる力を十全に伸ばすためにはなにをしたらいいかってことなのよ。だけど、特別な教育の仕方もあって、ナニナニ法みたいなものを好んでやる人たちもいるけれど、それよりも、やっぱり、その子の持ってる力、その子の発達に合わせて観ていくっていうのが、常識的な考えかただと思う。昔は特別なことをやって、かえってねじ曲げちゃったような例もいくつもあったからね」

 

 親としては自分の子どものことを「ふつうでいてほしい」というように心配する。それは当たり前の感覚だろう。けれど、山登さんは「そうではなくて」と言う。「その子どもがもともと持っている力を伸ばすためには、なにをしたらいいか。その子の持ってる力、その子の発達に合わせて観ていく」のである。

 このあたり、今回のテーマ「発達」の深い部分があると思う。とくに子どものこころをまんなかに考えた場合、親の心配とか世間の都合というよりも、子ども自身がどういうふうに成長・発達していくか、それしかない。

 

松尾「その子の発達に合わせてってことは、本来、その子には、このへんのポテンシャルがあるんだけど、いまは、ちょっとなにかが影響していて行けないんじゃないか……ということは、個別に見ないといけないわけだよね」

山登「個別に見ないといけないね。さっき言ったように、制度っていうのは平均に合わせてできてるわけだ。どこの国だって、だいたい、小学校に上がる年齢って決まってる。5歳か6歳くらいでしょ。子どもはみんな違うから、社会が用意した枠に入らないことが当然あるわけ。日本では、6歳になっても言葉がしゃべれなかったり、指示がぜんぜん聞けなかったりしたら、特別支援学校に行くことになるわけ。通常学校だけじゃ無理かなっていう子は、特別支援学級とか特別支援教室っていうのがふつうの学校のなかにあって、週に何時間かそっちに行くとかさ。そういう教育システムになってるんだよね」

ずる賢いのも、発達

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松尾「できないことで傷ついたり落ちこんでたりする子と、そこはぜんぜん関知しない子がいたとしたら、関知しないで平気なほうが幸せだよね」

山登「幸せですね」

松尾「親が、なんでこんなこともできないのって言っちゃったばっかりに、できないことを自覚しちゃう可能性もある」

山登「それは、もちろんあるだろうね。教育、躾の課程で、そうやって子どもが傷つくわけだよね。昔は、クラスで足の早いやつとかって一目置かれた。ケンカの強いやつとかさ。でも、ある時期、知育教育に片寄ったばっかりに、勉強のできる子っていうのが、足の早い子よりエラいみたいな時期もあった。おれたちがガキのころよりも、そっちにいったん揺れたわけだよね。ところが、いまじゃスクールカーストとか言って、コミュニケーション能力の高い、笑いの取れるやつが勉強のできるやつよりよっぽど上にいて、勉強ができるだけじゃあクラスでは評価されないみたいなことになってきた。子ども自身の自己評価が、そういう社会の物差しや、学校文化のなかで、歪められるってことはあるかもしれないね」

 

松尾「グループのなかでパッパッと空気を読めてリーダーになれてしまう……学力も運動能力も関係なくて、場が仕切れるっていうのも、それはまたなにかが発達してるわけだよね」

山登「人間って、いろいろ能力があるわけで、世渡り力というか、子どもなりのコミュニケーション能力というか、いい意味で人望を集めたり、悪い意味ではずる賢く人を操作したりっていうような才に長けたやつっている。それも能力の発達ってことだよね」

 

 子どもひとりひとりに、それぞれの発達の仕方があるということである。当たり前か……そう、当たり前なんだけど、文化や時代、社会や組織で、それが当たり前ではないってことはよくある。最近よく耳にする「ダイバーシティ」という言葉は「多様性」を意味するが、そんな言葉がわざわざ流行語になるくらい、私たちの国では多様性は当たり前ではないのである。

 でも、ここでは「成長と発達」は、人それぞれでいいじゃないかという前提で話していきたい。人それぞれ、みんな違っていてかまわない。そのうえで、社会のなかでどうやって伸びていくか。そこを考えていきたい。

 

松尾「学ぶといっしょで、発達も、ある社会のなかでの自分の人生をよりよくするために、そこに向かってうまくやれる能力を身につける、できるようになる、わかるようになるってことなのかな?」

山登「発達というのは、そもそも、生きものとしての、時間の経過にそったからだの変化なわけじゃない? 意図して発達できるわけじゃない。だけど、文化の影響を否応なく受けるわけだから、平均的というか、その文化のなかで許される道のりが決められてるわけだよね。そこからはみ出して生きるのも当然ありなんだけど、それには、それなりの力がもっと必要で……だって、ふつうにやってたほうがラクだもんね。メインストリートからはずれるっていうことは、それだけ、その人に力がないとダメだよね」

 

松尾「子どもの視線で考えると、どんどん好きなことをやって楽しく生きていたら、ぐんぐん、すくすく発達したっていうのがいいよね。これは学校選びとかの問題になるのかな。義務教育だと学校は選べないんだけど……どんな社会で生きていくかっていうのは、重要かもしれない」

山登「だから、親は学校選びで悩むわけだけど、選択肢があんまりないわけ。高校くらいになると、いろんな学校があるけど……義務教育が終わらないと、そんなに選択肢はない」

松尾「義務教育は、おしなべて平均値に合わせましょうという……」

山登「そう。昔は引っぱたいても枠に嵌めようとしたわけだよね。だけど不登校は出てきちゃうわ、発達障害が出てきちゃうわで、もう昔みたいに、なにがなんでも枠にはめようとする教育はおこなってないし、おこなえなくなってる。それと、学校の制度が完全に古くなっちゃってるからね。それに合わない子どもが出てくるのは当然なわけ。

 だけどさ、おれたちのころは、引っぱたいてでも枠に嵌めようとされたけど、べつのところがゆるくって、子どもの世界に、そんなに教師や親の目が光ってなかった。いまは少子化だし、親の目がみんな子どもに向いちゃってるわけでしょう? だから、いまの子どもは窮屈っちゃあ、窮屈な育ちかたをしてるかもしれないね」

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多様性を認めたら

松尾「現実として窮屈にならざるを得ないけど、もう少しゆるくしたほうがいいんじゃないかということね」

山登「ゆるくっていうか、要するにオプションとして、もっといろいろあっていいと思うし、これだけ多様性を認めようって言ってるんだったら、一斉授業でみんなこれをやりましょうじゃなくて、習熟度別でクラスをわけるとか、本人の発達の程度に合わせた教育が考えられてもいいはずだよね。

 だって、一斉授業だと、できるやつは退屈だし、できない子はわかんないまま置いてかれるわけでしょ。そういうことは、おれたちのガキのころから言われてるのに、いまもそんなに変わってない。そこのところが悪しき平等主義なのかもわかんないけど……習熟度別とか飛び級とかさ、海外ではあるらしいけど、日本ではやらないじゃない。

 就学猶予ってのも昔はあったんだけど……2年くらい遅れて入学するとかさ。いまなんか、ぜんぜんそんなことないし。1年生2年生で授業中に席に座ってられない子どもなんて、昔より多いと思うんだけど、ADHDとか言われる子どもたちだって、3年生くらいの年齢から学校に行かせれば、そんなところで苦労しなくてすむかもしれないんだよね。そういう子たちなりの、授業中うろうろしててもテストの点数が取れてればいい、くらいの感じでやれるクラスがあったっていいと思う。これだけ発達障害の子どもが増えてきちゃったら、なんとかしないといけないって感じはあるよね」

 

 山登さんは日常的に発達障害の子どもたちと関わっているから、そのあたりに関しては、きびしい意見がありそうだ。というか、学校では「平均的な」とか「ふつうの」みたいなことが中心に置かれて、そこから少しはずれていると、実に生きにくい。それは昔からちっとも変わっていないという嘆きなのかもしれない。

「発達障害がブームだ」とさえ言われる。あの子もこの子もADHDとかアスペルガーっぽいとか。ダヴィンチはアスペルガーで、エジソンはADHDで、アインシュタインはアスペルガー、モーツァルトはどうの、スティーブ・ジョブズもトム・クルーズもああだこうだ……と、定義づけの大ブーム。それにしては、現実問題として、あいかわらず発達障害の子どもたちが生きにくいのは、おかしいだろうと思う。将来、ジョブズみたいになるかもしれないんだったら、もうちょっと、そのつもりで大切にしてあげなよ、と。

 

松尾「親は自分の子どもの発達段階とか発達を見て、学校では息苦しくても家では抜けるとか、大丈夫と言ってあげられるほうが、子どもはラクだね。親と先生が同じことを言ってたら、子どもに逃げ場がない」

山登「そうそう。それは大変ですよ。ストレスだよね。でも、昔ほど、いまの親は学校に期待してないでしょ。たとえば不登校の子の親だって、先の心配はしてるけど、いやがる子どもを無理やり学校に行かせようって親はいませんよ」

松尾「その子に合わせた発達というのは、きのうより今日、できるようになったとか、そういう感覚でいいのかな」

山登「できるようになるっていうのは、どの子にとってもうれしいと思うんだよね。わかるようになるとかさ。わかるように教えてもくれてないのに、どうしてお前はそれができないんだって叱られてたら、それは子どもにとっては割の合わない話でしょ。

 なにがわかることが大事かって、年齢によって違うよね。おとなになってもわからないことはあって、それはただ知るってことじゃなくて、自分にとっての価値ってことで言えばさ。おれたちはこの年齢になって、発達なんかとっくに止まってて、これからだんだん、いろいろできなくなっていくわけだよね。だけど、わかるようになるっていう道はまだ残されていて、もっと人生にとってとか人間にとって大切なことがわかるようになれば、それを成熟と呼んでもいいかもしれない」

 

 うむ。発達の先には「成熟」があるわけね。いいね、成熟。響きがいい。それは間違いなく老いといっしょに現れるんだろうけど、そこに向かって、私たちは生きている! 60歳過ぎたら、つぎは「成熟」をめざすってことだ。

認めてもらえば、がんばれる

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 平均の枠におさまらなくても、成長・発達はある。平均の枠におさまらないと、いろいろまわりは大変かもしれないけど、とにかく、それぞれがそれぞれの成長をし、発達をしていく。

 

松尾「ほんとにう大切なのは、ひとつでもいから、あなただけの発達っていうのがあることかもしれない」

山登「そうだろうね。相手が子どもだったら、ちゃんとその力を評価してやって、伸ばしてあげる。それによってモチベーションがあがっていくわけだから……。すごいデコボコがある子は、やっぱり、できるところを誉めて伸ばして、モチベーションをあげて、ほかのこともそこそこできるように引っぱりあげていくっていうか……そういう考えかたでいいと思うんだけど、学校はなかなかそういうことをやってくれないもんね」

松尾「だって死ぬほど忙しいんですって、先生は言うんだろうね。いまや教師の過労の問題もあるみたいだし……。そうすると、誰か、その子のことをきちん注目してくれる存在……場合によっては友だちとか、恋人とか、という存在が大切なのかも。あなたのここを伸ばせばいいじゃないって言ってくれる人がいて、そうか、がんばるよってことになると、幸せだよね」

山登「まわりの評価っていうのは、子どものあいだは、親と、幼稚園や学校の先生と、友だちだよね。けど、それのどれにも恵まれない子っているわけだよね。学校の先生のなかで、担任はいやなヤツだったけど、あの先生だけはいつも自分によくしてくれたとか、そういう思いがあれば、がんばれるっていうのもあるかもしれない。友だちにすごいねって言ってくれる子がいたからがんばれたっていうのも、あるかもしれないし。だけど、いまの学校で言えば、先生たちは忙しくて、担任以外のほかのクラスの先生が自分に目をかけてくれるなんてないだろうし……友だち同士だって、いまの子たちは、学校が終わればそれぞれのスケジュールがあって、昔みたいに四六時中ダンゴになって遊ぶみたいな関係はないわけさ」

 

 いやぁ、大変だなぁ、いまの子どもたち……。自分の発達具合は子ども自身にはわからないから、環境のなかに「自由な発達」をうながす要素がないといけない。それなのに、親も先生も友人たちも忙しくて、子どもとしては、ひとりであらかじめ用意されたトンネルのなかをまっすぐに進むしかない。そんな状況が、ほんとに、かわいそうだと思うのだ。

「遊び」の項で「遊びは探索だ」ということがわかった。探索する場所は大きく開けていないと有意義な探索にならない。なのに、いまの子どもたちは、ひとりで公園で遊ぶことすらままならず、ひっそりと孤独に生きている。やっぱり、それは、かわいそうだよ。

 

 でも、YouTubeとかが登場して、個人の魅力がどんどん発信できるので、いずれ、枠にはまらないことがオッケーになる時代がくるのかもしれない。ただ、いまはまだ、社会性がうまく育っていないせいか、無理やり枠からはみ出すことをやって警察沙汰になっちゃうYouTuberもいる。「枠からはずれる」ことがネットの世界では大切だって流れになってるわけだから、いずれ、ほんとうに魅力的な「個性」が尊重される時代になってくるだろうと思いたい。ただ、それにしても「魅力的な個性」は、魅力的な社会が背景にないと育ちにくいだろうから、社会全体のゆとりや広がりが必要ではある。

 

山登「漱石の坊っちゃんがね、ネットだとADHDだったんじゃないかみたいなことを書かれたりしてるわけだけど……あの坊っちゃんって、ほんと、親兄弟には恵まれず、お手伝いの清(キヨ)さんっていう住みこみの婆さんだけがかわいがってくれたわけだよね。それで、松山の学校に赴任してからも、いやなやつばっかりで、坊っちゃんの目から見れば……生徒も下宿のおやじも、ろくなやつはいないんだけど、山嵐って、ひとりだけ友だちができて、その教師といっしょに教頭を待ち構えて襲撃して天誅くわえて東京に帰ってくる。それで清さんとふたりだけで、結婚もしないで暮らしている……みたいな話でしょう? 育ちの過程では親や先生たちには恵まれず、友だちにも恵まれず、だけど、清さんがいて、その存在を心の支えにして、そして、田舎に赴任したら友だちができて、っていうさ……」

 

松尾「人生ってそういうことだよね。だから坊っちゃんって作品が文学として成立してるってことじゃないかな。いま発達障害ブームってことなんだけど、その根本的な背景はなんだと思います?」

山登「発達障害がこれだけ増えたっていうのは、医学的な概念が広がったからなんだよ。発達障害ってものに関する考えかた自体が変わって、わっと人口が増えた。もともとそういう考えかたはあったんだけど、それは児童精神医学の領域のなかだけのことだった。しかも、昔はアスペルガー症候群やADHDなどは発達障害の中に含まれていなかった。そもそも、アスペルガー症候群が誕生したのは1980年代なかばだからね。そうなってくると、おとなの精神科のほうでも、実はこの人は気づかれていなかったけど、発達に問題を抱えた人だったんだ、と診断される人が増えて、人口が増えたわけですよね。そこは、やっぱり社会の変化っていうのもあって」

松尾「坊っちゃんってADHDだったんじゃないかっていう定義が広まったから、そういうふうに当てはめて理解したつもりになるけど、漱石の時代は、生きにくいな、でも、これで人生を生きていけるぞっていう人生訓の話として成立してた、と」

山登「あれが一種痛快小説として読まれたのはさ、病気の人の話ではないからですよ。ちょうど明治時代だから、時代も大きく変わって、文化的なものも変わっていって、江戸文化っていうものがだんだんしぼんでいって、文明開化の波に洗われていく日本、でしょ? そこに合わなくなった坊っちゃんが、いなかに行って大暴れするみたいな話でさ、そこに溜飲を下げた人たちがいたわけだね、旧江戸の……。

 だから、そういうことを考えると、当時から、ある種の人たちにとってはだんだん住みにくい世のなかになっていって、いまはそれが子どもたちにも及んでいて……。さっきの発達障害はなぜ増えたかっていうことで言えばさ、人間の育ちかたが変わってきたから、コミュニティもふくめて人間の集団っていうものが変化してきたから、新たにそういう名前をつけられる人たちが増えたっていうところは絶対にあると思う」

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松尾「明治時代の急激な時代の変化に比べると、いまって、真綿でゆっくり、気づかないような変化だよね。デジタルが進化したり、電気自動車ができたりってことはあるけど、価値観の根底はあまり変化がない、みたいな」

山登「確かに。街がどんどんつくり替えられていって、汽車が走って、みたいなわかりやすい変化とはまた違う……そういうインフラだけじゃなくて。松尾くんがいま言った、目に見えない変化っていうのはわかるような気がするんだけど、それを子どもたちがどう感じているかっていうことは、わからないよね」

松尾「子どもはまわりに社会ってものが存在してるんだっていうところで、すくすくとか伸び伸びとか言われてるんだけど、その伸び伸びが、アメリカの伸び伸びとドイツの伸び伸びと日本の伸び伸びが違うっていうことは、子どもにはわからない」

山登「日本の子どもの精神的幸福度って、先進国38カ国ではビリから2番め。これはユニセフの調査結果だけど、子どもは幸せじゃないわけですよ。日本の子どもたちはとりわけ自己評価が低い。残念ながら、伸び伸び育っているとは言いがたいね」

松尾「最近のニュースで、日本はジェンダーギャップ指数がすごく低いと書いてあった。先進国のなかで120番めくらいだという……そういうところも影響してるかもしれないね。女の人がもっと活躍して、女の総理大臣が生まれたら、もうちょっと生きやすくなる……」

山登「うーん、小池百合子じゃどうかなっていう……」

 

 小池百合子は、私もいやだ。選択肢のなかに彼女くらいしかいないってことが、そもそも間違っているのである。もっともっと女の人がふつうに活躍して、ジェンダーにかかわらず「発達」というものを広くとらえて、個性を尊重して、子どもたちの幸福感があがる必要がある。そのためには、間違いなく、古い価値観はこわれないとダメだ。新しい社会に対するビジョンを持たない政治家たちを、とにかく、総取っ替えする必要がある。

 

 子どものこころをまんなかに、今回は「成長と発達」について考えてみた。結論は、このままの社会じゃあ、ろくな成長も発達もないってことかもしれない。社会を変えないと、子どもたちがかわいそうだし、それはつまり、未来の日本人が悲惨ってことではないだろうか。