子どものこころを

まんなかに


2. 学び

子どものこころをまんなかに

学びってなんだ?

 いま思えば、第1回のテーマ「遊び」はわかりやすかった。「子どもにとって、遊びとは探索である」というひとことが、私のこころのなかにスッと染みこんできて、なるほどね、と、深く納得できた。まさに、目からウロコ。

 生物学的にも心理学的にも未熟な赤ん坊が、この世のなかがどういうふうになっているのか、少しずつ、見て、感じて、動きまわり……。不快なものを回避したり、挑んでみたり、周囲の声に反応したり、ゆっくりと自分の範囲を大きくしはじめる。その探索行動こそが「遊び」である。

 

 遊びは探索——子どもに限ったことではなく、おとなにも充分通用する定義なのではないかとも思う。おとなの遊びも探索なのだ。ゴルフやスキー、野球、サッカー、サーフィンなどのスポーツ系も、よりスキルアップしたい、もっと楽しくやりたい、それにはどうしたら? なんてことが喜びの源泉なわけだし、将棋だって囲碁だって、盆栽だって、映画鑑賞、美術鑑賞、カメラに料理、ハイキングに山登り……趣味と呼ばれるものは、みんな、おとなにとっての「探索」である。

 

 いやぁほんとに「子どものこころをまんなかに」考えると、人生のいろんなことがわかってくるなぁと感動しつつ、さて、2回目のテーマは「学び」である。

 これはきっと、探索行動である「遊び」の延長上に理解するのがいいのではないか。探索して「より深く知りたい」という気持ちになり、それが動機となっておこなわれる活動、それが学びだ! ではないか? と、勝手な予測をしつつ、山登敬之先生とリモート面談である。

 

     〇

 

松尾「先生、今日もよろしくお願いします。今回のテーマは『学び』です。というわけで、ずばり、学びとは」

山登「ぼんやり考えたんだけど、学校で勉強してる子どもたちの立場からすると、学校での勉強と、おとなが言う学びって違うんじゃないかな。おとなが言う学びって、主体的な、自分から積極的にものごとを吸収するっていう感じだよね。でも、子どもは、教えられる、教えてもらうことを学びっていうふうにあんまり感じてないんじゃないかな」

 

 ん? なんのこと? 子どもは確かに教えてもらうことを体験してるけど、それを学びだって感じてない? ん? なに、遊びの延長って話はどこにいった? どこにも行ってないのか。もしかすると、最初からトンチンカンな私ってこと?

 

山登「学びって、人間の人生の途中までは、学校教育と非常に結びついてるわけだよね。それで勉強がきらいになっちゃう子もいるし、学校の勉強をコツコツやっていく子もいる。

 学校教育に乗っかって、自分なりに学びの方法を身につけていくのが本質なんだろうけど、ほんとうの勝負は社会に出てからじゃない? そのときに、学校で勉強したことなんていうのは、ほとんど役に立たないわけですよね。ただ、その方法とか、論理的な思考とか、そういうのを身につけるのが学校教育の現場だと思うので……そこから自分なりに学んでいくわけだよね」

 

松尾「学校教育とかカリキュラムっていうことと、学びの本質ってイコールだって話なんですか」

山登「うん? 学びの本質ってなんだろう……学ぶっていうのは、やっぱり、役に立つことを身につけるっていうことじゃない?」

松尾「うんうん」

山登「それを主体的に身につけていくっていう……」

松尾「役に立つことを身につける?」

山登「うん……おとなになれば生活の役に立つ、仕事の役に立つ、こういうことを身につけていくわけだよね」

松尾「っていうことは、社会に出てからの方法論を身につけるっていう感覚が学びなの?」

山登「社会に出てからもすぐには役に立たないから、修業する何年間っていうのがあるわけだよね。下積み生活みたいな。その期間を通してずっと学んでいく。自分にとって役に立つことも立たないことも身につけて、あるいは、あとになってそれを削り落としていくのかもしれないけど……人生に必要なものは残る」

人生に役に立つことを身につける

子どものこころをまんなかに

 スタートの段階でつまづいてる場合でもないので、整理しておく。私は、前回の「遊び」の流れから、「学び」も、子どものなかで自然発生的に生まれてくるものだと思っていた。けれど、山登さんは、最初から「おとなはそうやって学びは主体的に積極的にものごとを吸収するって考えてる」けど「子どもは、自分がやってことが学びだって思ってない」と言う。

 どういうことか。山登さんいわく「学びとは、人生に役に立つことを身につけることである」と。

「探索」の延長に学びがあると思っていたけど、ちょっとばかり違うようなのである。

 

 でも……。と、しつこく考えてみる。

 私の知り合いの女性編集者の息子が、幼いころ、電車が大好きだった。最初は電車を見るのが好きで、車体の色やデザインを覚え、そのうち、列車番号とか路線とかに興味を持ちすべて暗記、どこそこにはこんな駅弁があるとか言いだし、駅名を覚えるために、早々と漢字事典を読みはじめた……みたいな子どもだった。

「遊び」と「学び」について考えるとき、私は、その子のことを思い出したのである。遊びからはじまって、その子のなかでは「学び」という領域にまで到達しているのではないか、と。

 

松尾「そうやって路線を覚えてしまうとか、駅名を全部漢字で書けるとか、それって学びではないのかな、と。遊びと学びって、密接に関係しているんじゃないですかね?」

山登「もちろん関係してるよね。でも、子ども場合、そんなことは区別していない。おもしろいことに食いついてやってるわけだから。子どもの場合は無欲で、なんの役に立つかっていうことを、あんまり考えないでやってるわけだよね。それが身についていって、関心が広がっていって、やがて主体的な学びに結びついていくと、それは望ましいかたちですよね」

松尾「でも、親からすれば……主体的な学びに結びつくより前に、電車に関する興味で、とにかく一日まるまるつぶれちゃうくらいの勢いで本人はのめりこんでいる、と。親からすれば、それはとても学びとは言えなくて、うちの子には困ったもんだ、みたいな話にもなってたわけ」

 

山登「学校にあがる前だったら、それは自由じゃない? でも、学校に行きはじめたら、学校に行ってる間そんな電車のことなんか考えてられないんだから、うちに帰ってきて、子どもにとっての趣味の時間にやらせるのか、それとも、あんた先に宿題やりなさいって言うのか、だよね。宿題を先にやんなさいって多くの親が言うし、それが必要なことでもあるわけだよ。子どもにとっちゃあ、おもしろくないかもしれないけど。

 学校に行ってたころって……おれは学校が好きだったっていうか……近所に友だちもいないし、学校に行けば、友だちもいて、成績もそこそこいいから誉められて、みたいなことがあるとさ、自分から宿題もやるし、予習もするしみたいなことになってくるわけだ。だけど、学びってたんに知識の積み上げってことじゃないよね。やっぱり経験としての学びというか……」

 

松尾「経験としての学び……。子どもは、遊びたいっていうのは自発的にできるけど……学校の勉強ってなってくると、自発的にっていうのは、あり得る?」

山登「あるんじゃないですか。好奇心もあるわけだから。ねぇ。それで電車なんかに食いつくわけじゃない? 入口は電車だけど、そこから関心が広がっていく……そういうことはおもしろいから自分から進んでやるわけだよ。それが魚でもいいし虫でもいいし、べつの対象でもいいわけだから。学校ではいろいろ教科学習が用意されている。子どもによっては、関心はなくてぜんぜんやりたがらないものもあるし、それを無理やりやらされて、成績が悪いとお尻叩かれてるうちに、学校がいやになっちゃうこともある」

松尾「それは、学びというものに失敗するっていうことですかね。ぜんぜん興味が湧かない、と」

山登「学校の勉強なんてなんの役に立つのっていうふうになっちゃう子もいる。そこそこ、できないならできないなりに、手を抜きながらやっていく。それも、学習の姿勢を学ぶってことでは大事なことかもしれない」

 

松尾「結局、いまのところの話だと、学びというものと学校教育というものが、あたかもイコールのように先生は語ってるんですけど……」

山登「子どもにとっては、区別つかないよ。勉強って『勉めて強くする』だけど、学習っていうのは、まさに『学び習う』わけでしょう。当然、子どもの身にしたら、習うっていうことは、学びとほぼ同じ、その年齢では。学習するイコール習って覚える。それはまぁ、おとなになっても必要なこともあれば、なんの役にも立ってないっていうことも当然出てくるわけだけど、そこで鍛えられるものもある。

 実際、自分が学校に通ってたころって、どう? おれは算数ができなかったけど、大学に受かるにはある程度点数が取れないといけないから、よくあんなに勉強したなっていうくらいやったけど、いまとなっては、それこそ大学の受験のためだけに役に立ちました、って話だけどね」

発達にデコボコがある子ども

子どものこころをまんなかに

松尾「子どものこころをまんなかに置いたときに、学びと表現される、なにかしらの学習だったりということと、学校教育のカリキュラムがうまくマッチングする子はいいと思う。どんどん自信もつくし。だけど、マッチングしてない子が世のなかにはいて……落ちこぼれとか言われて、レールからはずれていくこともある。たとえば、フリースクールみたいなのが最近あって、受け皿みたいになって……そこでは、べつに算数教えたり国語を教えるわけじゃないけど、絵を描かせたら生き生きするとか、木工細工がうまいとか……それもまた学びだよね」

 

山登「そうだね。だから、一斉授業で、みんなおしなべてこれくらいできないといけないというところに、どうしてもはまらない子がいるわけで……自分がこれをやってるとおもしろいっていうものが見つかると、将来につながっていいわけだよね。

 いままで日本の学校は、平均的なところに合わせて、いっせいに、30人とか40人子どもを集めて同じことを教えてるんだが……子どもはいろいろなんだから、そもそもそこに無理があるわけだ。いま、発達にデコボコがある子どもっていうのが増えてきて、いままでみたいなやりかたじゃダメだってなってきてる。そういう子たちも、べつに知能は低いわけではなく、これは得意だけどこれは苦手っていうのが極端に出て。

 不登校が出てきたときも、そういう環境に適応できない子どもが学校に行かなくなっちゃったわけだから。もう少しいろいろ選択肢があれば、いま18万人だったかなぁ、小中学生が学校に行かない状況をもっと早くになんとかできたとは思うけどね。

 話がちょっとずれちゃうけど、発達障害の子どもたちが出てきたことによって、学校教育自体を考え直さなくちゃいけないっていうことがより深刻に、より切実になってきてる……という流れはあるんじゃないかな。実際にそれが国の施策として文科省が変えられるか、現場を変えていけるかっていうむずかしいところだと思うけど」

学ぶ=まねる

 なぜ人は学ぶか……ひとりひとりのことを言えば、社会に出たときに、社会のなかで、ひとりの人間としてより強く生きていくためであるという定義が成り立つ。いまは、職業自体も、サラリーマンになるのがよしではなくて、ユーチューバーもあり、歌を歌ったり踊るのもいいってことになってきてはいる。ということは、カリキュラムとして学びがあるのだとしたら、もっと多様性が必要になってくるのではないだろうか。

 

松尾「むずかしいなぁ、学びって」

山登「学びっていうのは、学校で習って覚えることよりも、もっと上のほうの概念だよね。もちろん習って覚えるっていうのは、学校に限らず、親から習って覚える、職場に出れば上の人から習って覚える技術を身につけるとかっていうのは、みんな学びなわけだよね。学ぶっていうのは『まねる』からきてる。だから、子どもの立場にしてみると、モデルがいないとね。積極的に教えてくれる人もいいけど、自分が見て学ぶモデルがいないと学びは続かないよね」

 

「学ぶ」は、そもそも「まねぶ」といった。それは「まねる」と語源が同じ。

「学ぶ」は「まねる」。つまり、誰かのまねをすることが、学ぶということ。ってことは、誰かまねる相手がいないと、学べないってことではないか?

 

松尾「たとえば、虫をじっと一日中見てても、それは子どもにとっては探索であり遊びなわけだよね。そこで、すごいもの見つけたねって言ってくれる誰かがいて、今度はここを掘ってごらんとか、今度はこっちから見てごらんっていう……それはまさに、遊びながら学びの深度というか、深みが増すよね」

山登「そうね。だから、子どもの成長を考えていくと、遊びの先に学ぶがあって、遊びと学びが続いていけば、非常にいいよね。だけど、学校に入っちゃうと、そういうかたちでは、なかなか学ばせてくれない……」

松尾「ってことだよね」

山登「ねぇ。これだけ必要だから覚えなさい、みたいになっちゃうし、テストもあるし……」

子どものこころをまんなかに

人間関係を学ぶ

松尾「ひとりで虫を追っかけていてた子どもは、それが遊びであり学びであり、すごく楽しかった、と。ところが、つぎに社会……クラス20人とか30人のなかに放りこまれたときに、教師としては、この30人の共同生活をうまくやれるっていうのが、まず大前提としてあるんだけど……ぼくはそんなものにぜんぜん興味ない、この虫が好きだっていう子は、どんどん下に落りていかなきゃしょうがなくなっちゃう。社会に出て集団のなかで生活するっていう前提があれば人間関係を学ばなきゃいけないけど、いまの時代……それはほんとに必要なんですかっていう……どうですか?

山登「でも、やっぱり……たとえこういうネット社会になってもさ、人間関係っていうのはあるわけじゃない?」

松尾「ありますね」

山登「会社に出勤しなくったって、リモートで対話するっていう世界もあるわけだから……人と人とのつき合いかたの勘どころみたいなのはあるわけでしょう? 

 いま発達障害っていわれてる子のなかの自閉症スペクトラム……自閉症の仲間に入る人たちは、その勘どころがうまくないわけだよね。ピンとこないわけ。集団のなかで、ここでは黙ってたほうがいいとか、ここはちゃんと積極的に自分を出していかないと舐められるぞとか、そういう勘どころが自然に身につかない人たちが、自閉症のなかに多いわけね。

 それって、子どもの集団で育っていけば自然に身についてくるものなんだけども、それが自然に身につかない。こういうときにお友だちだったらこう考えるよとか、みんなのなかではこうしたほうがいいよとか教えてあげないといけない。ほっといても育つっていうふうにはならない」

松尾「ほっといては育たないから、でも、人間関係のなかで生きていく術を学ばせる必要はある、と」

山登「そう。だから、子どもが集団で生活する何年間かっていうのは、人間は社会的な動物なんだから、人間の基礎づくり、土台づくりとしては大事なわけだよね。だけど、そこに適応できない子、ひとりで遊んでる子、おうちで本を読んでるほうが楽しい子が出てくる。だから、学びの対象っていうことを言えば、いまの学校ですら、そういうものは用意してるわけだよね。人間関係を学ぶ場所を、学校という場は設定してるわけじゃない? 同じ世代の子どもがワチャワチャやりながら、そうやって育ってる。それは、学校教育がカリキュラムとして用意してるのとはまたべつな、場としてある」

 

 なるほど。たんにカリキュラムを教えたり覚えたりすることだけではなく、教室があり運動場があり、給食の時間とか、ホームルームとか、とにかく、学校生活のすべてが「学びの場」であると。

学校は学びの場

子どものこころをまんなかに

松尾「よし、学校というのは、学びの場というふうに定義しましょう。学校は学びの場であると。カリキュラムだけじゃなくて、人間関係も学ぶんだよ、と。でも、そしたら、やっぱりちょっと、いじめがどうしたとか、髪の色とか制服のルールとか、社会現象的に騒がれてることを眺めてみると、どこか歪んでるっていうか、いままでどこか間違ってたかもしれない、っていうことになっちゃうよね」

山登「時代に追いつかなくなってるんじゃないのかな。時代の変化や時代が要求してくるものに、学校は追いつけない、と。だから、そこに適応できない子がどんどん増えてる。親も、学校に行かせなきゃいけないっていうような切実さは、いまはない」

松尾「うんうん」

山登「不登校っていう現象が、知れわたったってこともあるから」

 

松尾「ということは、昔は親が学校に従わなきゃいけなかったけど、いまは、親が自分の子のことを考えると、社会的に少々未熟でも、うちの子はこんなにいっぱいいいことあるよって言ってあげれば……子どもとしても楽だし、親としても方向性が見えやすい……」

山登「でも、なかなか、そんな余裕のある親はいないのよ。学校に行かなかったらうちの子の将来が不安だ、みたいに考えるのがふつうじゃない? 自分は学校出てるから、学校に行かない生活っていうのは想像できないわけだよね。学校に行っててくれればラクだしさ。学校に行ってくれなかったら、子どもの教育は自分が考えて、それなりに通う場所を見つけたりとか、自分で勉強を教えてやったりとかしなくちゃいけない」

松尾「うん」

山登「そこまでできる人っていうのは、いないわけじゃないけど……そんなにはいないよね」

 

 うーむ。むずかしいなぁ。「遊び」の場合は、探索してればいいんだから、どんどん好きなように遊びなさいって話になったけど、「学び」の場合は、どこで、どんな仲間たちと、どんな教師が教えてってことまでとっても重要なファクターになってくる。まさに場の選択。親としては「できるだけ恵まれた環境で」なんて考えがちだけど、でも、社会に出たときの「打たれ強さ」みたいなことも学んでほしいし……。

学校では習わないもの

子どものこころをまんなかに

山登「学びって、習って覚えるだけど、親から教えてもらったことっていうのは、どう? これは親から教えてもらったっていう……具体的なことであれ、抽象的なことであれ……」

松尾「うーん。親から教えてもらう、学んだこと……」

山登「海援隊の『母に捧げるバラード』じゃないけどさ、ぼくに人生を教えてくれた〜♪ って、気持ちは……親の背中を見て育つじゃないけど、いいところも悪いところも親の様子を見て、子どもなりに学ぶわけだよね」

 

松尾「親から学んだことじゃないけど、そう言えば、小学生になってから、なぜかぼくは、絵を習いに行ってたなぁ」

山登「うんうん」

松尾「バスに30分くらい乗って、姫路のお城の麓に、姫路城を描く、姫路じゃ有名な画家がいてさ。その人が教室を開いてて、6年間、毎週、土曜日だか日曜日におふくろが連れて行ってくれたんだけど、いま思えば、なぜあれをやらせたかっていうのが、よくわからない。学びに関して言うと……自分が絵がうまくなったとは思わないけど、でもまぁ6年間のスキルはあるんだろうなぁ。なんだったんだろ、あれ」

 

山登「お稽古ごとは、子どもたち、いまたくさんやってるよね。だいたい塾に行って、お稽古ごとをふたつくらい、スポーツ入れて……ピアノと球技とか、そういう子は多いよね。おれも幼稚園のときから、ピアノを3年くらいやったかな、小学校2年くらいで行くのいやでやめちゃったけど……」

松尾「お稽古ごとっていうのも、学びでしょ?」

山登「学びでしょうね。とくに、芸術系とか、からだを鍛えるだよね。子どもにいろんな機会を与えてあげようと思っていろいろやらせるけど、そんなに、がっと食いつく子どもばかりじゃないから、そこそこやって、やめてるんじゃないかね。学校の部活に移っていったりとかさ」

 

松尾「お稽古ごとっていうのは、学校のカリキュラムにはないことだけど、子どものなにかしらのプラスアルファを育てようと。親は、学校だけじゃなにかが足りないと思ってるから、お稽古ごとなのかな」

山登「どうなんだろう。やっぱり子どもの可能性を広げたいっていう気持ちはあるんじゃないのかな。あと、子どもが楽しんでやってる姿を見たいとかさ」

松尾「うんうん、それはあるね」

山登「子どもが喜んでくれれば、うれしい」

松尾「うん、わかる……昔の話だけど、うちの息子がね、中学校になったときに、エレキベースを買ってくれって言ったのね。おれも中学のときにフォークソングがブームで、ギターを弾いてておもしろかったから、いいよ買ってやるって言って、御茶ノ水まで行って、楽器屋でギターを買ったわけ。で、買ってきて、なにをやるのかなって思ったら、まず、開口一番、息子が言ったのは、習いに行きたいって」

山登「ほほお」

松尾「で、自分で先生を見つけていいかっていうんで、いいよって言って、近所の、ベーシストだかギタリストだか、その人はベースでもギターでも弾けるっていうんで、レッスン料を払って習ったんだよね。それが、ぼく的にはちょっとショックで……。要するに、エレキベースをやるっていう感覚って、ロックンロールなんだから、自分の感覚から言うと、習いごとからはずれるスキルだっていう気がしたんだけど、いきなり、エレキベースを習うのかぁ、みたいな」

山登「クラシックギターならともかく……」

松尾「そうそう。たとえば、ギターのうまいちょっと不良の先輩がいてさ、聞きにいってておもしろい、そのうち、ロックな生活にハマっちゃいました、とかね。息子にとってのロックって、まさに習いごとだったのかもしれないんだけど」

山登「スキルを身につけるには、いちばん近道だと思ったのかも知れない、ねぇ」

松尾「そうそう。合理的っちゃあ合理的だけど……おれは、ロックンロールな気持ちからはずれていく気がしたんですよ」

山登「うんうん、親の気持ちとしてはわかりますよ。青春デンデケデケデケ」

松尾「そうそう。それがないんだもん。習うのかぁ、みたいな」

子どものこころをまんなかに

どこで自信をつけるか

山登「おれなんかはマンガを描いたり芝居をやったりしてたときのことを言えば、それは要するに学校で習ったもんじゃないわけでね。劇団に入って、それ以前にも、芝居を観たり、大学でやったりして自分で学んでるわけで。

 マンガと芝居は子どものころから好きで、学校で教えてもらったんじゃないけど……だからこそ、自分が納得できるくらいに自信が持てるものになったと思うんだよね。学びっていう、学校をはみだした、もっと広い視野を持ったものとして考えられるというか……」

 

 山登さんは大学のときに筑波小劇場というサークルで芝居をやっていて、私はジャズ愛好会でドラムを叩いていた。友人には8ミリ映画(いまの子たちには、なんのことだかわからないだろうなぁ)を撮ってるやつもいて、そもそも、山登さんと私はそういうつきあいなわけで……。山登さんは、のちに『劇団東京乾電池』にも所属して、ほとんどセミプロみたいな時代もあった……。

 

山登「ものを書くっていうのも、もちろん、国語の時間の作文の先にあったわけだけど、いまでも、ものを書いてるわけでね。小学校の1年生のときに、担任に誉めてもらって、区の展覧会かなんかに貼り出されたっていうことがあって……」

松尾「それ、作文が?」

山登「そう。『おるすばん』っていうタイトルでね。ひとりで留守番をしたっていう経験を作文で書いたら、先生がすごく誉めてくれて、区の展覧会で貼り出された、と。そのときから、作文が好きになったっていう……単純だけどさ。いまは医者をやってるけど、文章もときどき書いてるっていうのは、そういう経験が非常に影響してる。

 劇団なんかで、ほんとに学んだっていうのは、それこそ柄本明を横で見てて、あとは若いやつらといっしょにやって……まさにそういう体験を通して学んだっていうところで……。しかも、芝居をやめちゃったからもうなんの役にも立たないっていうことではなくて、人間を観察するっていう意味では、精神科の仕事と通じるものが大いにあるから、そこで学んだことが自分の財産になってると思う」

 

松尾「学びって、実は、100個覚えられなかったとしても、そのなかで自信をつけたり……1時間集中できたとか、そういう、こころの動きみたいな、精神的な自信とか、自尊感情っていうことが、実は大きなポイントなのかな」

山登「うん……だから、自分が生きていくうえで役に立つものを必要としているし、それを身につけるために、時間なり気力なり体力なり、そういったものを総動員しなくちゃいけないわけだよ。子どものときは、なにか好きなものとか、そういうところを夢中になってやるという体験が大事なので、これが好きだ、だから勉強する、これをやると誉められる、だからもっとやろうとか。それが、おとなになるところまでうまくつながっていくといいんだろうね」

師匠の存在

子どものこころをまんなかに

松尾「社会人になってからってのことを考えると、実は、社会人になるまではやったことがないことを仕事としてやらされることもたくさんある。たとえば、営業職の人も、そんなこと学生時代にやったことはないけどモノを売る、と。セールスして、じゃあきみから買うよって言ってもらったときの喜びは、たぶん、新人営業マンには響く。そこで、いろんなものを学ぶ。先輩うまいこと言うなぁと思いながら聞いて学ぶとか……。意外に、学ぶって、子どものときは自分のキャパシティはどれくらいかをわかっておけばよくて、社会に出てから役に立つかどうかは、社会に出てから学ぶしかない気もするね」

 

山登「いまの話を聞いて思うことは、師匠っていうのかな、自分の。自分にとっての師匠……さっきの松尾くんの息子が自分の先生を探してベースを習いに行ったとかさ、たいしたもんだと思うんだけど……」

松尾「師匠と出会うか出会わないか……昔なら職人さんのところで住みこみの修業をして、無口でなにも教えてくれないけど、そこで1020年いると、なにかしらのものを確実に身につけられるという……その人はまぎれもなく師匠としか呼べない、人生の師であるって……それは非常に幸福な関係かもしれない、確かに」

山登「そうなんだよ。でも、いまそういう徒弟制みたいなのはどうなのかね? 流行らないんじゃない? 寿司職人になるのに10年も修業するなんて馬鹿馬鹿しい、寿司の学校に行けばいつでもできるってホリエモンとか言ってるし」

松尾「言ってましたねぇ。ああいう考えかたになるってことは、まさに、徒弟制ではない社会になってきたってことなのかな。むずかしいなぁ、学び……考えていきたいのはあくまで『子どものこころ』だから、社会人というのは置いときたいんだけど、やっぱり学びというと、子どものときだけでは終わらないんだから、その先の、二十歳あたりから先の人生のことが、学びとの関係が大きいかもしれないってことかな。学びを定義するときに……」

 

山登「さっきの言いかただと、身につく、身になる、体験を通して、学習を通してそれが身になるっていうことが、いちばん大事なことなんじゃないかな」

松尾「腑に落ちるとか」

山登「うん」

松尾「やっぱり、子どものこころをまんなかに考えると、ぼくの感覚で言うと、前回の『遊び』っていうところの探索行動があった、そこからうまく、師匠的に自分の興味のあるところを引き揚げてくれて……そうすると、どんどん、もっと知りたい、もっと学びたい、そこをもっと教えて欲しいということが出てきて……自分はまったく興味がなかったけど、こんな人が現れてとか、こんな友人が現れてとか、そうやって学べるんだとしたら……きっとその子はりっぱな人になりそうな気がする」

山登「そうそう。そうやって集団のなかで学んでいく、子どもが育っていくっていうのは、望むべき姿だよ。ひとりでアスペルガーの人みたいにブワァって本を読んで、大学の先生になるような学者肌の人っていうのは特別だけど、多くの子どもはそうやって、仲間といっしょに勉強しながら、学びの姿勢を身につけていくんだね」

 

 どうやら、学びには「導いてくれる師匠のような存在」が非常に重要である、というあたりが今回の結論ではないだろうか。「学ぶ=まねる」なのだから、とにかくまねしたくなる存在は必要だ。

「子どものこころをまんなかに」。

 そこから見える誰かが、子どもを導いてくれる存在……結局、おとなの人生観とか能力とか魅力が試されているってことなのかもしれない。