子どものこころを

まんなかに


1. 遊び

子どものこころをまんなかに

おとなの遊びは、飲む打つ買う?

「子どものこころをまんなかに」というテーマで、精神科医の山登敬之さんとあれこれと雑談していくシリーズ。第1回のお題は「遊び」。

 

 遊び——子どもにとって大切であることは間違いないと、恐らく誰もが納得するだろう。「子どもにとっては遊びが仕事」とか「子どもは遊びで育つ」とか、当たり前のように言われているわけで……。

 ちなみに、おとなにとっての遊びは、昔から言われるのが「飲む打つ買う」である。酒と博奕と女……ジェンダーの観点から言えば「買う」は「女」だけではなく、男を買うということもあるだろう。つまり、色恋とか性欲の解消とかっていう意味だ。ただまぁ、いまの時代、遊びを「飲む打つ買う」なんて言ってる人はいないだろうが……。

 現代的に言うと、おとなにとっての遊びとは、趣味とか余暇とかレジャーとかの広がりを持って、仕事ではないところで精神的にリフレッシュするものと定義していいかもしれない。

 というふうに、おとなにとっての「遊び」は「仕事」の対極だったり「仕事は遊び」というふうな表現で語られたり……つまり、つねに「仕事」との関係で語られることが多い。「仕事がきつくて、たまには遊ばないとストレスがたまる」とか「私にとっての仕事は遊びだから、楽しくやるように心がけている」とか……。

 この「仕事」と「遊び」の問題は、山登さんと雑談するうちに、私のなかでどんどん大きなテーマになりつつあるのだが、ここではそのことはひとまず置いて、子どもにとっての遊びについて考えていく。

 

子どもの遊びは、探索行動である

子どものこころをまんなかに

松尾「山登先生、よろしくお願いします。第1回のテーマは『遊び』に決まりました。っていうか、山登さんが、まずは遊びについて語らないとね、ってことで……」

山登「そうだね。遊びは、ぜったいに、はずせない」

松尾「おとなにとっての遊びっていうと『飲む打つ買う』からはじまって、趣味とか、リフレッシュできるとか、いろいろありますね。金がからんだり欲がからんだりするから、とても複雑な気がするんだけど、では、子どもにとっての遊びって、いったいなんでしょう……」

山登「大袈裟に言うと、子どもは遊びを通して世界を知るっていうか。言ってみれば、探索行動の延長……遊びを探索行動ってとらえるんだけど、子どもは遊びを通して世界を知っていくんだね」

 

 子どもにとって遊びは「探索行動」。

 なるほど、いきなり「おとなの遊び」とは違う概念で、腑に落ちる定義ではないだろうか。探索行動っていうのは、実にわかりやすい。

 生まれたての人間は肉体はもちろん脳もまっさらで、いろんな知覚機能も未発達で、右も左もどころか、この世がいったいどういうものなのか、まったくわからない。母親の肌のぬくもりを感じミルクを飲んで排尿し、そして眠り……という生理的なプロセスをくりかえし、しだいに、見えるものや触れるものに注意を向けるようになり、そのあたりから「探索行動」がはじまる、と。

 

 そう言えば、その昔、糸井重里さんの「くうねるあそぶ」というコピーがあった。1989年の日産セフィーロの広告コピーである。およそ30年前。栄養摂取(食う)と睡眠(寝る)と探索行動(遊ぶ)。このコピーは、バブルが終わりかけの社会背景のなかで生まれ、その時代の気分を表現していたように見えて、実は、生まれたての赤ん坊にとって必要な基本要素の話ってことなのだ。すごいぞ、糸井重里……って、違うかな?

 

 と、話が脱線しました。

 子どもの遊びは、探索行動なのだ、と。

 なにかに触れて、ときには舐めて、握って振って転がして……声を出せば親が反応し……。ちなみに、子どもと直接接しているのは「親」とは限らないので、専門的には「養育手」というふうに表現するらしい。その養育手は、やがて「いないいない、ばあ」をやってくれたり、ボールを転がしてくれたりするようになる。そういう「遊び」を通じて、しだいに、子どもは「世のなかはこういうふうにできている」ということを感じ、理解するようになる。

 

松尾「でも……幼児期での子どもの遊びと、小学校の遊びって、同じかなぁ。小学生の遊びには、なんだか純粋さがなくなってくる気もするけど」

山登「意味は違ってくるだろうね。だんだん社会的に課せられる学校生活があり、学校の勉強もある。それと遊びっていうのは別れてくるよね。だけど、学校にあがるまでは、基本、子どもは遊びを通して世界を知り人生を知りみたいなことで、ほんとうは、遊びのなかで育つという環境が、子どもにとってはいいと思うんだ。

 ところが、いま、早くから知育教育に行ってしまう傾向はある。早い時期からお勉強の時間、遊びの時間、あるいは、トレーニング的な躾の時間と遊びの時間に分けられてしまって、子どもにとっては息苦しい。子どもも生きるのが大変だなみたいな時代になってるわけ。ほんとにちっちゃい子どものころに好きなものを取り上げるっていうのが、いちばんよくない。どんなへんなものを好きでも、それを取り上げるっていうのは、子どもの可能性を奪うことになるね」

邪魔してはダメ!

子どものこころをまんなかに

 遊び(=探索)を続けながら、子どもは自分の周囲のことを理解し、世のなかを知り、より深く知ろうと興味を持つ。歩けるようになると、あたりをウロウロしては転んだり立ち上がったり、しだいに体力もついて、もっといろんなことができるようになってくる。家から出て、つぎには外の世界を探検して、草花を見つめたり、虫をつついてみたり。もちろん、ただ走りまわるだけってこともあるかもしれない。なんでそんなところを汗だくになってぐるぐるまわってるんですか、みたいな。でも、それらすべてが遊びであり、イコール探索なのだと理解しよう。

 そのプロセスで「なんでこんなに好きなのかよくわからないけど、楽しい」ってものに出会う。その方向に探索がどんどん深まっていく。理由はない、けれど、そこに向かってなにかが自分を駆り立てる……それを取り上げてはダメ、ぜったい、ってことだ。

 

松尾「探索行動という意味では、幼児期の遊びがもっともピュアな探索行動って気はするんだけど、そういうとき、一生懸命、自分の好きなことにのめりこんで遊んだという体験とか感覚が、その後の成長……もっと言うと、おとなが生きていくうえでも大事じゃないかって思いついたんだけど、どうですかね?」

 

山登「大事だと思うな。それこそ学校に行けなくなっちゃった子とか、おとなでもうつ病になっちゃった人とか……子どものころ、なにが好きでしたか、なにをやってきましたか、それをもう一回やってみましょうって勧めたりはするんだよ。なにやってたかなぁって……そこで、ああ、ぼくアレが大好きでっていうような人のほうが、むしろ少ないかもしれない」

 

 遊びの体験があることが、おとなになってから、なにかの救いになる……これは、個人的には非常に納得できる、というか、私は全面的にそういう人間である。精神的な負荷が大きくなったときに「好きなことをやらなきゃストレスがたまる」ってことを自覚できたり……。なにが好きだったか覚えてないけど「遊んでて、気持ちよかった、楽しかった」ということを覚えているから、心がへんになっちゃいそうなときに、それを探そうとする、みたいな。

 

松尾「だけど、ストレスを抱えてそれに押しつぶされる人って、楽しいことが世のなかにあるってことも忘れているのか知らないのか、ってことはないですか」

山登「知らない……そうだね。そういう経験が乏しいんだろうなって人もいるね。だから、思い出せないし、いまさらそんなことをしても、なんになる? みたいな、そういう気持ちが先にきちゃう。それこそ、遊び心を忘れてるか、遊び心がないんだな」

松尾「遊び心……それそれ」

山登「病気をよくするためにもっと有益ななにかをしたい、しなくちゃいけないんじゃないか、みたいな。いま会社も休んでるんだし、子どものころにプラモデルが好きだったんならプラモデルでもつくってみたらどうですかって話ができるといいんだけど、なかなかそういうふうには発展していかない。もちろん、うつがひどいときにはね、なにをする気にもならないんだけど……」

 

 精神医学の問題について深く考えることはしないけれども「遊び(探索)」をしっかりとやって、自分のなかに満足を覚えたかどうかというのは、その後、おとなになってからの精神状態に影響するという話である。

子どものこころをまんなかに

自信も育つ

山登「松尾くんは子どものころ、ああいうことやって楽しかったっていうのは、ある? アレばっかりやってたみたいな……なにかに夢中になった経験……」

松尾「夢中になったもの……なんだろう。ないかなぁ。なにかに夢中になってたんだろうけど……」

 

 パッと思い出せないままそう答えて、しだいに、記憶がぼんやりとよみがえってきた。ほんと、誰かと話しているうちに思い出すってことは、あるね。

 

松尾「そうそう、プラモデルは好きだったなぁ。その前はブロック……レゴみたいなもので、いろんな飛行機つくってみたり、宇宙船とか、クルマをつくってみたりっていうのは、大好きでした。話してるうちに思い出してきた」

山登「松尾くんはひとりっ子だよね?」

松尾「そう、ひとりっ子」

山登「だから、ひとりで遊ぶ時間が長かった?」

松尾「そうですね。親がいて自分がいる、しかないわけだから、環境が」

山登「近所のガキどもと、暗くなるまで外で遊んでてっていうのは、ない?」

松尾「それはね、もうちょっと大きくなって、小学生くらいになったら、ビー玉やってた」

山登「はあはあ」

松尾「そう、ビー玉だ! ビー玉遊びは、もう、なんだろう……時間を忘れてたね。いろいろ思い出してきたぞ、何度も言うけど」

 

 と、あとで「ビー玉」を検索したら、Wikipediaに載っていた。「近畿地方のビー玉の遊び方」というカテゴリーまであって、丁寧に解説されている。そう、まさに、これ。これを、ほんとにもう、夢中でやってた私なのである。

 

山登「そのころはさ、ビー玉っていうのは、お友だちと遊んで、友だちと過ごす時間だよね。そのなかで、さらに自分の技術を磨く……できるようになるとうれしいとか、楽しいとかさ、そういう体験でもあるよね。

 遊びを通して、そういう子どもの自信を育てる。こうやったら誰にも負けないみたいなさ。○○ちゃんみたいに上手になりたい、みたいな。そこで育つものは、そういう、子どもの積極性であり、自尊感情であり、みたいなことかもしれない」

松尾「協調性とか? 友だちとケンカしててもゲームは進まないので、ちょっと我慢しなきゃいけないとか、そういうものをふくめて、遊びで育まれる?」

山登「そうだね。広く言えば、社会性だよね。子どもにとって遊びとはって言った場合、もうひとつ、からだを育てるってこともある。からだを動かして、からだを育てる。あとは友だちとの関係、要するに社会性を育てる。遊びの効用っていうのは、そういうことになるんじゃないかな」

 

松尾「山登さんと話をするのに、なにか本でも読んでおこうと思って、児童教育の本を読んだのね。そのなかに『アクティブ・リスニング』って、子どもとの接しかたで大切なのは、子どもの話をちゃんと聞くアクティブ・リスニングっていうのが大切ですよって書いてあって、ふと思い出したことがあって……幼稚園のときかな……小学校に入る前くらいのときに、母親が、ひとりっ子のぼくに対して「きょうはなにがあったんだ」って毎日……家に帰ると、きょうはなにしたのって、関西人だから「今日は、なにしたん?」とか「今日は、どんなことがあったんや?」って……これを毎日、けっこうちゃんと、帰ったらそこに座りなさいからはじまって、なにかおやつでも食べながらだったのか……毎日それをやってたなぁと。

山登「うんうん」

松尾「そのことが、すごく楽しかったって思い出でもないんだよ。ただただ、母親が聞くから話す……どんな話をしても、ふーんとかへえとか聞いているんだけど、これは、意外に、いまのおれのキャラづくりに大きな影響を与えたんじゃないかな、と。

山登「その時期の子どもはさ、親になにがあったかっていうのをストーリーで語るっていうのは、なかなかむずかしいことなんだね。そういうチカラをつけるっていう意味では、毎日それをお母さんとの間でやるっていうのは、いいことかもしれない。でも、お母さんに聞いてくれる態度がないとさ、苦痛になっちゃうじゃない?」

松尾「そうそう。べつにしゃべりたくてしゃべってるというよりも、まず聞かれるから一生懸命しゃべる。しゃべると、だんだん、うれしそうな顔をしてたんだと思うんだよね、母親が」

山登「お母さんがね、楽しそうに聞いてくれるのは、大事だね」

松尾「そうそう、へたな落語でも楽しそうに聞いてくれれば、みたいな。そのうち、だんだんスキル・アップしてくるんだと思うんだよ。人に対してなにかをしゃべるのが好きで「それが、いまのおれ」みたいな気もするしね。そうやって、遊びを見守ってくれるというか、ひとり遊びだけじゃつまらなくて、友だちがいっしょとか、親とか先生とかっていうのは、大事なんだろうね」

 

山登「そりゃあ、やっぱり。だって、人間は群れで生きる……基本的には、社会的生きものなんだから、やっぱり子ども同士の時間があり、おとなに見守られて遊ぶ楽しい時間がありって、両方あったほうがいい。

 いまは子どもの数も少ないし、みんな、どこもおとなの目が届いちゃってる。昔はそれこそ、子どもが外で遊んで夕飯までに帰ってくれば、外でなにをしてるのか親にはわからないっていう……子どもの世界があったわけだよね。子どもの掟で成り立っている世界が……」

生きる力を育てる

子どものこころをまんなかに

山登「最近、発達障害だなんだって、コミュニケーション力がどうの、コミュ障がどうのっていうのは、子どもの世界で磨かれるはずの体験が貧しくなったせいかもしれないとも思うんだよ。時間も場所も奪われて……。おれたちくらいの世代だったら、小学校までにだいたいこれくらいできますってことが、いまの子はできないまま小学生になっている……つまり、自然な経験が積み重ならないままその年齢になった結果、子どもたちの何割かが、発達障害って言われてしまっている可能性もあると思うんだよね」

 

松尾「まさに、遊ばないまま、社会的なところに放り出される。ある年齢になって、上がらなきゃいけなくなって小学校や中学校に入る……ぜんぜん遊んでないので、なにも社会を探索してないのに、はい、ここからスタートっていうことだね」

山登「そう、チカラがついてないってことになっちゃう……おとなの功利主義っていうか、役に立つことばっかり先に考えてしまうから、子どもがやってることがすごく無駄に見えてしまうのかもしれない。 

 たとえば、心理療法でもプレイセラピーってあるんだけど……プレイセラピーっていうのは、子どもはひたすら遊んでて、そこに心理士がついて、いっしょに遊んであげたりするわけだけど……ある種の親は、遊んでるだけじゃねぇかって、これじゃ保育園と変わんないじゃないかって」

松尾「クレームみたいな?」

山登「そこは、ちゃんと親に、きょうはこういう遊びをして、こういう様子が見えて、これはこの子にとってこういう意味があるんだってことをフィードバックしないと治療の名に値しないんだけど……。だけど、とにかく心理士の目の届くところで、子どもが夢中になって遊ぶっていうことが、まず非常に意味があるんだよ。それでセラピーの名に値するわけだから」

 

 セラピーの様子を見て、こんなのセラピーになってないじゃないかって文句を言う親は、子どもが楽しそうに遊んでいるってことをよしとしない「苛立ち」があるのだろうか。子どもが病気かもしれないのに、遊んでる場合じゃないという感覚。それは、山登さんが言っていた「病気をよくするためにもっと有益ななにかをしたい、しなくちゃいけないんじゃないか」と考えてしまう人の精神状態に近い。

 

山登「松尾くんのお母さんが松尾くんの話を上手に聞いてくれたように、子どもと上手に遊べない親とかおとなが、いっぱいいるよね? たまたま、そういう家に生まれちゃったとしたら、かわいそうだよ」

 

松尾「うちの子どもがちょっと大変なんですって連れてきたら、親のほうに問題があるってこともある?」

山登「もちろん、持って生まれたその子の気質……特性っていってもいいけど、育ちにくい子には、それなりのワケがある。一概に親だけを責められない。でも、少なくとも、生まれてきた子どもに罪はないよね」

松尾「そりゃあ、そうだね」

山登「その子どもをどう扱うかっていうのは、確かに親のほうの意思と、やりかたの問題だよね」

子どものこころをまんなかに

遊びと社会

 最初に遊びはじめるとき——私自身はひとり遊びが多かったが、やがて、友だちとビー玉をやりはじめると、仲間がひとり、ふたり、3人、4人と増えていって社会ができる。遊びという名の探索をしているうちに「社会」ができるわけだが、そうすると、チカラの強いやつが勝つとか、いきなり乱暴に全部持っていくとか、ジャイアンみたいなキャラクターも登場する。そういうチカラの強いキャラクターは、それまでの遊び(=探索)の結果、弱いやつをいじめて楽しいということを身につけてしまっている可能性もある。ほかの子どもからすると、そんなキャラクターがいるから、すべてがつまらなくなってしまうこともある。

 せっかく楽しかった遊びがつまらなくなると、ジャイアンを排除すればみんなが幸せになれるというのは、正しい考えなのだろうか。

 

松尾「そこはどう考えたらいいのかね。最初に、幼児期の遊びと小学生の遊びはいっしょなのか聞いたけど、その疑問の根源は、そのあたりかもしれない。最初は遊びイコール探索として入っていくんだけど、やがてそれが社会になっていく。そこで不愉快なことがあったり、チカラの強いヤツが独占したりってこともあるよね。そういうときに、楽しく遊べないんだったら違う遊びの場に行くのがいいのか、それとも、それじゃ楽しめないからジャイアン君、こうしなよってみんなで話し合うのか……そういうことで獲得できるものもあるとは思うけど……むずかしい按配じゃない?」

 

山登「それはぜんぜんいいんじゃないのかな。子どもたちの世界で成立してるんだったら。そこにおとなが割り込んで、悪しき平等主義じゃないけど、そういう考え方で介入するのはよくないよね。

 子どもの社会としては、ジャイアンみたいなやつがガキ大将として集団を支配するっていう時間がどこまで続くかっていう話だったり、みんなが抜けちゃってジャイアンがさびしい思いをするとかだったり、そういうのが、当然、あるわけだ。そういうところで、その社会が成り立ってるわけだから、それはそれで取っといてやんないといけない」

 

 なるほど、基本は「子どもの遊びは探索だから、邪魔しちゃダメ」ってことなのである。子どもは子どもだけの社会を通じて、それまでとは違う人間関係とはなにか? ってことを探索しているわけだ。

 

山登「ところが、それが、もうちょっと年齢があがって、中学くらいになって、ヤンキーの世界になって、パシリみたいになっていいように使われて、そいつが自殺しちゃうとか、そうなるときわめて危険で、そういう話はいくらもあった。でも、もっとちっちゃいころにそういう経験をしていると、やばい、あいつには近寄らないほうがいいとか、早く抜けようとかって知恵が働くと思うんだけど……かわいそうなことに、そういう子たちは、年齢なりの成熟レベルに達していない可能性があるんだね」

松尾「子どものときの遊びの深度が浅いっていうか……」

山登「まぁ、そういうことだよね」

松尾「きちんと深くまで遊べていない、つまり、世界を探索できていない」

山登「うん。ほんとに、基本的に、地域社会が崩壊してるわけだから。今日はあの子だちと遊んでるんだろうっていうんで、お母さんは安心してべつのことをしていられたわけだけど……いまは、あの子と約束をして、みたいに、スケジュールを管理しないと、そういう時間はつくれないからね」

 

松尾「そうなんだよねぇ。でも、だからと言って、そこを嘆いていても仕方ないよね。ドラえもんに出てくる土管の置いてある広場って、確かにぼくらのときはあったけど、いまないもの」

山登「やっぱり、お金と知恵を割いて、そういう時間なり場所なりを確保しないといけないと思う。とは言え、ただ、おとながお膳立てした、おとなの目が届く管理された時間は、豊かなものではないような気がする。子どもは子どもたち同士でぶつかって覚えていく。そのことを大事にする考えかたなり姿勢なりが必要ではないかと思うよ。

 時代が変わっても変わってはいけないものってあるよ。変わってしまったんだったら、どうやったら本来の意味を取り戻すというか、本質的なところにもう一回引き戻して、なにか違うかたちでやるってことじゃないかな。そういうことを民間の団体でよくやってるところはやってる。遊び場づくりみたいなの、あるよね?」

松尾「そこに行ってるっていう安心感で親はいられるし……誰にも束縛されずに、遊べる……」

山登「学童保育みたいなのをアクティブにやってるところもあれば、子どもがつまんなくて行かなくなってしまうところもある。あとは、親同士のモメゴトがあって、うまくいかないとか……」

 

 話が進んでいくと、いろいろと社会の不具合も目につきはじめてくる。それこそが「子どものこころをまんなかに」世のなかを見つめることの効用だろう。それをどういうふうに改善したり修正していくかということは、これからの社会の大きな課題だと思う。そういう観点でこれからじっくりと考察していく必要があるのだが、まずは「子どものこころをまんなかに」あれこれ世界を見直すことを繰り返していきたい。

 ということで「遊び」については、ここまで。時間は「学び」について考えてみる。