「明治大学 子どものこころクリニック」院長の山登敬之さんとの対談は9回に及んだ。テーマは「遊び」「学び」「食べる」「成長と発達」「病気と死」「性」「家族」「友だち」「夢」。
ひとつひとつ、実に広がりと深みのあるテーマである。あまりに深遠なテーマでもあるので、「子どものこころ」という軸がなければ支離滅裂になったと思う。いや、ほとんどの回で、話はあちこち飛びすぎて、収拾がついていない。あちこちトッ散らかりながら、そのまま収録してみた。
対談をはじめる前に想定していたのは「60歳を過ぎたからこそ考えたい、これらかの生きかた」みたいなものを、「子どものこころ」にフォーカスすることで探りたいということだった。ある意味、原点回帰である。
それがうまくいったかどうか、よくわからない。
私には、すでに結婚している息子と娘がいる。そのせいもあり、山登さんと話していると、ついうっかり「孫ができたときに」みたいな感覚で話してしまうことがあった。孫の成長をどう見守るか、という幼児教育マニュアルみたいな視点である。
それはそれで仕方ないと思いつつ、いや、もしかすると、だからこそ、山登さんとの話は有意義で楽しかった。孫の話ではない、自分のこれからのことだ、と、自分を戒めながら、山登さんの話を理解しようとした。
もちろん、子どものこころを考えるとき、自分のことを振り返ることも多かった。自分が子どもだったとき、なにを感じていたか、どんなことを考えていたか、なにを恐れていたか、なにが楽しかったか……など。
そして、毎回、自分の息子と娘が子どもだったころのことも思い出した。どういうふうに彼らと接してきたか、というような、自分が親だったときの記憶である。
そうやって、自分が子どもだったときのこと、子育てをしていたときのこと、そして、つぎの世代の子どもたちに触れるかもしれない未来……そんなことを想像しながらの対談だった。そこで学んだことを、これからの自分の人生を歩む中心に置きたい。
『子どものこころをまんなかに』
生きていくための基本的かつ大切なことが、ここにあるのではないかと思う。
「せっかくなので、あとがきみたいな感じで、まとめてみれば?」
と、山登さんから提案された。
というわけで、これまでの対談から学んだこと、考えたことを、短くまとめてみることにした。
山登さんにも「まとめ」を書いてもらった。「子どものこころクリニック」院長の山登さんとっては「子どものこころ」は、日常業務の対象であり、研究のテーマでもある。なので、私との対談は、ほぼ「松尾くんとの、ただの雑談」以外のなにものでもない。という意味をこめての「まとめ」になっていて、私は、つくづく、ありがたいと思った。
山登さん、サンキュー!
第1回のテーマは「遊び」。山登さんから学んだことは「子どもにとって、遊びとは探索行為である」ということ。「遊び=探索」。生まれてきた赤ん坊は世のなかのことをなにも知らない。少しずつ周囲の刺激を認識できるようになり、やがて立ち上がり、歩きはじめる。そこからはじまる「遊び」は、世のなかを「探索」することなのである。
おとなになった立場で言うと、逆に「探索=遊び」とも言える。あれこれと興味を持ち「どうなってるんだろう」「おもしろそうだ」というふうに探っていく。そのことが「遊び」なのである。
遊びとは、探索。探索こそが、遊び。とても大切な人生の哲学を理解できた気がする。
なんのために学び、なにを得るのか。それは、基本的に「社会で生きていくための術を身につける」ということなのだ。国語、算数、理科、社会……などなどの科目は、あくまで、人生のための学びの場を提供する手段として存在しているということだ。「学び」は「遊び」のように自然発生的に生じるものではない。あくまで、学校のような学びの場で、教師の指導管理のもとに、やや強制的におこなわれる。食事のしかた、友だちとの遊びかた、などもふくめて、世のなかで生きていくための方法を身につける。それが学びである。
学校って意外に大切なものなんだな、ということを、この年齢になって改めて教えられた気がする。
食べることで栄養を摂取して、からだは成長していく。なので、子どもにとっては、食べたいときに食べたいものを食べたいように食べるのが、もっとも好都合で楽しくラクチンだ。が、社会で生きていくためには、なかなかそうはいかない。躾けもふくめて、親が、あるルールを教えなくてはいけない。箸の持ちかたとかスプーンの使いかた、など。テーブルマナーを教える家庭もあるかもしれない。
が、とにかく、基本的には楽しく食べることが大切。できれば、家族で、みんなでワイワイと。食事は「人間関係の基本」なのだ。そこを大切していると、子どもは「人間関係の基本」を身につけて育つということになる。
山登さんからのキーワードは「発達とは、大きくなること、できるようになること、わかるようになること」。
大きくなる、できるようになる、わかるようになる……こういうことが、学校のような「集団で生活する場所」でおこなわれると、そのなかで、「まわりと比べて」という指標も適用されるようになる。平均値より一定程度成長とか発達が遅いと、なにかしらの対策が必要ということもわかってくる。また、集団で生活することで、社会的なふるまいも身につくし、そのことで成長・発達していくこともある。
まわりとの競争もあるが、「自分らしさ」とか「もともと持っている力」を理解することがより重要。などということを考えつつ、私たちのように60歳を過ぎてしまうと「成長と発達」はほぼ終わり、これから先は「成熟」なのだね、と、なぐさめのような理解で話が終わるのである。
子どもは、まず「親の死」を恐れる。だが、それはとても抽象的な感覚で、やがて忘れてしまう。成長と発達という概念とは真逆の「病気と死」というようなマイナスのイメージは、避けて通れないものとして、子どものこころに刻まれつつ、曖昧な感覚だけが残る。それが自然なことなのだろう。病気や死について、子どもがぼんやりと気づきはじめたときこそがチャンスで、おとなたちは、じっくりと話しあってみるのがいいのではないか。おとなだからといって正確に理解できている事象ではないし、おとなでも恐怖心はある。だからこそ、話す。子どもにとっても、おとなにとっても、それは、とても大切な機会になる。
「子どもは、エロのかたまりである」。というのが、今回の骨子。気恥ずかしいし照れくさいから、なかなか、子どもの性について想像しにくいが、実は、そういうことなのである。もちろん、子どもにとっての「性」の中身は、現実的なセックスのことだけではないが、曖昧なまま、成長を支える基礎的なこととして、こころのなかに存在している。それは自然なことなので、けっして否定せずに、おとなとしては、話す機会があれば正面からしっかりと向き合うべきだ。「病気と死」と「性」は、対極にありつつ、人間の根源的な課題そのものだ。タブー視しないで、しっかりと子どもと向き合いつつ、話すべきテーマなのである。
核家族や少子化の影響で、どんどん家族の構成人数は減っている。だが「子どもにとって」という視点で考えると、家族の人数は、むしろ多いほうが「社会や人間関係を学ぶ機会が増える」ので、いい影響がある。老人がいて親がいて、なんだったら親戚のおじさんおばさん、いとこ、はとこ……などなどがワチャワチャと生活している空間、そこで育つのは、間違いなく「いいこと」なのである。というあたりが「家族」に関する大切な基本ではないだろうか。家族が少ないのは、けっしていいことではない、ということが、これからの時代の常識になったほうが、日本はいい国になる。
子どものとき、いっしょに遊ぶ仲間というのが「友だち」である。そのうち、思春期になってくると「なんでも相談できる相手」が友だちになり、やがて、親友と呼べる人が現れる。人生において「友だち」というのは欠かせないものであるけれど、実は、それは自己愛の投影だったり、自己満足であったりして、意外に「幻想」のようなものではないか、というのが、私の個人的な感想である。
山登さんは「人間関係の望ましい最終形態」と表現した。「要するに、赤の他人だけど、人間関係のかたちとして、最後に残るのは、友だちじゃないか」。血縁でも配偶者でもなく、友だち。それこそが、人間関係の最終形態。そうかもしれない。でも、それってやっぱり「幻想」なのではないか?
子どものときに「あなたの将来の夢はなんですか?」と問われて、そのときごとに、いろいろなことを空想する。サッカー選手、消防士、歌手、小説家、YouTuber、などなど。どれも、ある種の職業である。そういうときの「夢」は、子どもに人生の目標や力強く生きていくための指標を設定させる、という役割がある。「人生の成功と幸せを想像する」ためのツールなのである。そして、また、それは「自立する準備」でもある。
けれど「夢」にとらわれすぎると、人生に失敗してしまうこともある。そこのあたりの按配が実にむずかしい。けけど、あまり職業に固執する必要もない。夢は「誰にでもやさしくしたい」とか「困っている人を助けたい」「世界平和に貢献したい」でもいいのである。
そして、私は「遊んで暮らしたい」という夢こそが、王道ではないかと密かに思っている。
遊び ぼくと松尾くんは、大学生のころ、8ミリ映画という遊びを通して知り合いました。
学び ぼくも松尾くんも、人生のしくじりから多くを学び、いまここにいます。
食べる 恵比寿の居酒屋では、ふたりでハムカツをよく食べた。
成長と発達 ぼくたちは発達も成長もとっくに止まったので、あとは成熟あるのみです。
病気と死 松尾くんは糖尿病ですが、死ぬのはまだ先でしょう。
性 性体験はぼくより松尾くんの方が早いし多い。
家族 松尾くんは、結婚して、家族を持って、家を建てて、子どもをふたり育てましたが、ぼくは結婚しただけで、あとはなにもしませんでした。
友だち というわけで、ぼくと松尾くんは古い友だちです。
夢 ふたりとも夢見がちなところは、還暦を過ぎたいまでも変わりません。